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雑感『風の歌を聴け』

21歳の「僕」はクールだったのか

本作は21歳の「僕」の夏の日々が主時間であり、その時点での現在と過去が一人称で描かれている。

話せば長いことだが、僕は21歳になる。
まだ充分に若くはあるが、以前ほど若くはない。

(『風の歌を聴け』講談社文庫 p72)

例えば、鼠との会話にしても、

「ああ。」と僕は言った(p17)。

と、過去形で描かれる。つまりこの会話は21歳の夏、「僕」の帰省中になされているが、文章としてつづられているのはその少し未来ということになる。

ところが、この物語自体は8年後、29歳の「僕」が書いているというメタ的な構造がとられている。

しかし年じゅう霜取りをしなければならない古い冷蔵庫をクールと呼び得るなら、僕だってそうだ。

そんなわけで、僕は時の淀みの中ですぐに眠り込もうとする意識をビールと煙草で蹴とばしながらこの文章を書き続けている

(『風の歌を聴け』講談社文庫 p109〜110 ※太字引用者)

つまり上記引用中のクールさについての所感は、29歳時の「僕」のそれなのだろう。

では、主時間を生きる21歳の「僕」は、古い冷蔵庫のようにクールだったのだろうか。

かつて誰もがクールに生きたいと考える時代があった。
高校の終り頃、僕は心に思うことの半分しか口に出すまいと決心した。理由は忘れたがその思いつきを、何年かにわたって僕は実行した。そしてある日、僕は自分が思っていることの半分しか語ることのできない人間になっていることを発見した。

(『風の歌を聴け』講談社文庫 p109 ※太字引用者)

「高校の終り頃」、つまり17、18歳ごろから「僕」はこの習慣を始めたのだろう。とすると、21歳時はその「何年か」の真っ只中である可能性がある。

ここで、「僕」のパーソナリティーの変遷を振り返ってみよう。

~14歳 ひどく無口な少年(p27)

14歳の春 堰を切ったように僕は突然しゃべり始めた
(p31)

14歳の7月 無口でもなくおしゃべりでもない平凡な少年
(p31)

17、18歳 思うことの半分しか口に出すまいと決心した
(p109)

(21歳
(物語の主時間)

?歳 自分が思っていることの半分しか語ることのできない人間
(p109)になる

29歳(物語の執筆中) 古い冷蔵庫をクールと呼び得るなら、僕だってそうだ
(p110)

このように時系列で見てみると、21歳時点の「僕」が、?歳の「自分が思っていることの半分しか語ることのできない人間」になっているかは定かではない。

もう少し細かいところを見てみよう。
本作は断章的な構成が特徴であるが、29章と30章は、「僕」の「悟り切ったような部分(21歳時点)」と「クールさ(29歳時視点)」の類似性を手掛かりにつながれる。

「馬鹿になんかしないよ。」
「そんな風に見えるのさ。昔からそんな気がしたよ。優しい子なのにね、あんたにはなんていうか、どっかに悟り切ったような部分があるよ。……別に悪く言ってるんじゃない。」

(『風の歌を聴け』講談社文庫 p108 ※太字引用者)

高校の終り頃、僕は心に思うことの半分しか口に出すまいと決心した。理由は忘れたがその思いつきを、何年かにわたって僕は実行した。そしてある日、僕は自分が思っていることの半分しか語ることのできない人間になっていることを発見した。
それがクールさとどう関係しているのかは僕にはわからない。しかし年じゅう霜取りをしなければならない古い冷蔵庫をクールと呼び得るなら、僕だってそうだ。

(『風の歌を聴け』講談社文庫 p109 ※太字引用者)

ジェイが言うように21歳の「僕」に「悟り切ったような部分がある」のは「昔から」であり、彼の言う「昔」とは「初めてあんたに会った時、まだ高校生だった(p146)」ころだ。
そう考えると、「僕」に「悟り切ったような部分」があったこととクールさの希求は、時期的にパラレルではあるものの、切り分けて考える必要がある。

こうは考えられないだろうか。17、18歳から少なくとも21歳時点まで、「僕」は「優しい子」である自分を、クールな存在に切り替えようと訓練をしている。ジェイはそのさまをつぶさに見つめてきた。ジェイの目には、「思うことの半分しか口に出すまい」としている「僕」に「悟り切ったような部分」があるように見えているーー。

たしかに「僕」は優しい。もっともわかりやすいのは、ジェイズ・バーの「洗面所に寝転がっていた小指のない女の子(p62)」を介抱したことだろう(「ずいぶん親切なのね?」)。ほかにも同じくジェイズ・バーで「30歳ばかりの女(p45)」に小銭を貸してやったり、「ヒッピーの女の子(p73)」に「何か食べさせ」たり、修学旅行で「クラスの女の子(p57)」のコンタクト・レンズを探したり……。そして、突然かかってきたラジオDJからの電話に答えるというのも、受動性というよりは親切さの発露と言えるかもしれない。

しかし、ラジオDJとの会話は淡々と進行しつつも、唯一はさまれる地の文では、「僕」の腹立ちという感情が描かれてもいる。

「ほう……動物は好き?」
「ええ。」
「どんなところが?」
「……笑わないところかな。」
「ほう、動物は笑わない?」
「犬や馬は少しは笑います。」
「ほほう、どんな時に?」
「楽しい時。」
僕は何年かぶりに突然腹が立ち始めた。
「じゃあ……ムッ……犬の漫才師なんてのがいてもいいわけだ。」
「あなたがそうかもしれない。」
「はっはっはっはっは。」

(『風の歌を聴け』講談社文庫 p58~59 ※太字引用者)

このやり取りを素直に読むと、ラジオDJの軽薄さやあけすけさに「僕」が「ムッ」としているようにもとれる(「ムッ」はDJのしゃっくりなのだが、それでも)。とくに11章の「ON」と「OFF」でDJの態度の落差を見ているだけに、読者にとってその印象は強まる。

だが、当然ながら、クールさを身につける訓練中の「僕」の心情は、丁寧に字義どおりにとっていく必要があるだろう。なぜ「僕」はこのとき「何年かぶり」に感情をゆさぶられたのだろうか。

動物が好きな理由は半分ずつ語られる

「動物が好き」かどうかの問答は、「小指のない女の子」ともう一度繰り返される。

「何を勉強してるの?」
「生物学。動物が好きなんだ。」
「私も好きよ。」
僕はグラスに残ったビールを飲み干し、フライド・ポテトを幾つかつまんだ。
「ねえ……、インドのバガルプールに居た有名な豹は3年間に350人ものインド人を食い殺した。」
「そう?」
「そして豹退治に呼ばれたイギリス人のジム・コルヴェット大佐はその豹も含めて8年間に125匹の豹と虎を撃ち殺した。それでも動物が好き?」

(『風の歌を聴け』講談社文庫 p81)

動物をとくに好きではない人でも、相手が「動物が好きなんだ」と言ったら、「嫌い」「好きではない」と表明するケースは多くはないだろう。つまり動物についての会話は、程度の差こそあれ動物好き同士で続いていくことになる。
だが、「僕」が動物を好きな理由は「笑わないところ」だった。ここに「私も好きよ」との乖離が生じる。ビールを飲み干し、フライド・ポテトをつまんでから展開された「僕」の豹の話は、その乖離を埋めるために展開されている。

「僕」の話を細かく見ていくと、まず「350人ものインド人を食い殺した」という事実が、情緒的な「好き」の選択肢を奪う。さらに「イギリス人のジム・コルヴェット大佐」の豹と虎狩りは、言ってみれば、この大佐が笑いながら動物を虐殺したことを示唆する。害獣の駆除は、いわば公認された虐殺だ。つまり「僕」が動物が好きな理由の「笑わないところかな」には、人間が笑いながら殺戮を行う動物であることへの嫌悪がある。

このように見てくると、「僕」の「動物が好き」という理由が、本書のなかでは別の個所で半分ずつ語られていることがわかる。まずDJとの会話で「笑わないから」という理由が説明される。そして「小指のない女の子」の会話において、「なぜ笑わないから好きなのか」が語られるのだ。

なぜそうなるのか。
まず単純に、「僕」の「動物が好き」な理由は、すべて一時に説明するには長い。もうひとつは、すべてつなげて説明すると、人間が笑う動物であることへの嫌悪にまで言及せざるをえなくなってしまうからだ。

ラジオDJへの腹立ちの理由も、根底はそこにあるだろう。
まず、不可抗力とはいえ、ラジオの生放送中に長い話はできない。
もうひとつは、この会話がラジオの電波に乗っていることだ。ある意味では「僕」は、聴衆に向かってサービスすることを求められている。なぜなら、不特定多数に聴かれている状況には、多少なりとも公共性が生じるからだ。心に思うことを、すべてではなくても表出する義務が生じる。そんな状況でも「僕」は「半分」ならば提供できる。しかし半分以上は出せない。DJはそのボーダーを超えようとしてくる。そのことに、「僕」のいらだちは向いているのだろう。

あるいは視点を変えて、腹立ちの理由を別に求めることもできるかもしれない。
犬や馬が「少し」笑うとき、おそらく本当に楽しいのだろう。これに対し、「心に思うことの半分しか口に出」せない「僕」は、楽しい感情の全面的な表出ができない。そうした、いわば自身が打ち立てた生き方に対し、「僕」は腹が立ってきたのかもしれない。

そう考えると、「犬の漫才師」の称号も、DJの自虐的呼称という以外の解釈の余地が出てくる。すなわち、本当の思いを「少し」表出できる存在である。
DJも「ON」のときに、いつも本当に楽しくてしゃべっているわけではないだろう。しかし図らずも「僕」から「犬の漫才師」の称号を与えられたことで、本当の思いを表出する資格と機会を得る。

僕は・君たちが・好きだ。(p144)

このメッセージは、「いつもみたいな犬の漫才師に戻(同)」れることを担保にして発せられる。

同様に、「僕」が「心に思うことの半分しか口に出すまい」としていることが、鼠や「小指のない女の子」に本音やそれに近い感情の表出を許している部分はあるだろう。

「我々はどうやら同じ材料から全くべつのものを作りあげてしまったようだね」と鼠は言った。「君は世界が良くなっていくと信じてるかい?」
「何が良くて何が悪いなんて、誰にわかるんだ?」
鼠は笑った。「まったく、もし一般論の国というのがあったら、君はそこで王様になれるよ」

(『羊をめぐる冒険(下)』講談社文庫 p204)

次々作『羊をめぐる冒険』において、鼠は「僕」を「一般論の国」の王様と称する。その片鱗は本作にすでに見られる。

「(前略)だけどね、人並み外れた強さを持ったやつなんて誰もいないんだ。みんな同じさ。(中略)強い人間なんてどこにも居やしない。強い振りのできる人間が居るだけさ。」
「ひとつ質問していいか?」
僕は肯いた。
「あんたは本当にそう信じてる?」
「ああ。」
鼠はしばらく黙りこんで、ビール・グラスをじっと眺めていた。
「嘘だと言ってくれないか?」
鼠は真剣にそう言った。

僕は車で鼠を家まで送り届けてから、一人でジェイズ・バーに立ち寄った。「話せたかい?」
「話せたよ。」
「そりゃ良かった。」
ジェイはそう言って、僕の前にフライド・ポテトを置いた。

(『風の歌を聴け』講談社文庫 p117~118)

鼠の「嘘だと言ってくれないか?」に対して、「僕」がどう答えたのか、沈黙を保ったのかは明らかではない。だから読者にとっては、ジェイの「そりゃ良かった」がただの楽観のように聞こえてしまうかもしれない。しかしジェイにとって、「僕」と鼠が話したという事実だけで十分なのだ。
つまり「僕」と鼠の会話は、一定のコンセンサスに至ることが目的ではない。意見の一致をみる必要はない。ここにこそ、「鼠」が「他に誰が居る?(p95)」と言うゆえんがある。

鼠はその人並み外れた弱さゆえに、「棄郷」と「義絶」を余儀なくされる運命にある。「脊椎の神経の病気」の少女が、「良いことだけを考えるよう努力し」、「夜はきちんと寝るように(p143)」するのとは対照的に、鼠は秋の訪れとともに調子を崩していく。
手紙の少女は「風の中を歩くこともできず(p142)」にいる。鼠は風の中を歩くことしかできない。

風ーー。
デレク・ハートフィールドの「火星の井戸」の「火星人」は、「宇宙の創生から死まで」、「時の間を彷徨っている」。彼らには「生もなければ死もない。風だ(p123)」。風は本作では永遠の謂いだ。しかし決して肯定的には描かれていない。

彼らは25万年後に太陽が爆発し、「パチン……OFF」することを知っている。

137億年(ビッグバン~現代) + 15億年(青年が井戸を抜けるまでの時間) + 25万年 = 148.25億年

宇宙の誕生から太陽の死まででも、これだけの年月である。彼らの言う宇宙の死まで、さらにどれくらいの歳月を必要とするのか見当もつかない。その永劫のなかを、火星人は風として往還を続ける。

火星人は「しゃべってるのは君さ(p122)」と言う。
「パチン……OFF」するまでの間、「犬の漫才師」はしゃべり続けなければならないことを我々は知っている。火星人が風になって沈黙を守ったようには、我々は生きられない。宇宙の進化のエネルギーに個体は耐えられないからだ。しかし鼠の人並み外れた弱さはそれに挑戦しうる。

「でも結局はみんな死ぬ。」僕は試しにそう言ってみた。
「そりゃそうさ。みんないつかは死ぬ。でもね、それまでに50年は生きなきゃならんし、いろんなことを考えながら50年生きるのは、はっきり言って何も考えずに5千年生きるよりずっと疲れる。そうだろ?」
そのとおりだった。

(『風の歌を聴け』講談社文庫 p17)

「パチン……OFF」まで5000年生きるには、何も考えなければいい。金持ちは金持ちであるために考えなくてもよい。家が金持ちである鼠にとって、そうあり続けることは容易である。鼠は5000年どころか、宇宙の創生から死の間をさまようこともできるかもしれない。そのことに鼠は心底、いら立っている。

いつか風向きも変わる

「僕」の3番目のガール・フレンドは、1970年3月、首をつって亡くなった。彼女の死に対して「僕」が抱いた感情は直接的に描かれないが、彼女について語った26章に続く27章で「僕」は嫌な夢を見て、嫌な汗をかいている。21歳の「僕」の物語は1970年8月8日に始まり26日に終わるので、ガール・フレンドの死はまだ過去と呼ぶには生々しい。

次作『1973年のピンボール』では、この女性は「直子」の名を与えられ、その死の影響はより明らかに描かれる。
「直子」はある意味では記号的な存在だ。『ノルウェイの森』の同名の登場人物に直結してしまうからだ。しかしデビュー作である本作および続編の『1973年~』では、まだ直子やそのほかの女性像に未分化な部分が少なくない。

「一人でじっとしてるとね、いろんな人が私に話しかけてくるのが聞こえるの。……知っている人や知らない人、お父さん、お母さん、学校の先生、いろんな人よ。」

(『風の歌を聴け』講談社文庫 p134)

上記は「小指のない女の子」のせりふだが、下記『ノルウェイの森』の直子の手紙の記述に直結する。同作で直子は、頭の中の声を振り払えずに死を迎える。

私が淋しがっていると、夜に闇の中からいろんな人が話しかけてきます。(中略)キズキくんやお姉さんと、そんな風にしてよくお話をします。

(『ノルウェイの森(下)』講談社文庫 p159)

一方で下記の記述は、『ノルウェイの森』の緑をほうふつとさせる。

「お父さんは五年前に脳腫瘍で死んだの。ひどかったわ。丸二年苦しんでね。私たちはそれでお金を使い果したのよ。きれいさっぱり何もなし。おまけに家族はクタクタになって空中分解。よくある話よ。そうでしょ?」

(『風の歌を聴け』講談社文庫 p78)

「お母さんの病気と同じだからよくわかるのよ。脳腫瘍。信じられる? 二年前にお母さんそれで死んだばかりなのよ。そしたら今度はお父さんが脳腫瘍」

(『ノルウェイの森(下)』講談社文庫 p64)

また、『ノルウェイの森』でも「僕」が緑と添い寝をする場面があり、彼女は「怖いのよ」と言う。本作の「小指のない女の子」も性行為なしで「僕」とともにベッドにいる場面で「怖いのよ。(p127)」と告げる。
さらに彼女が双子であることは、『1973年~』の双子(「208」と「209」)を思い起こさせる。

このように、村上作品の女性登場人物の未分化な総体として「小指のない女の子」を捉えると、彼女が具体的にかなり傷ついていることがわかる。

「ずっと何年も前から、いろんなことがうまくいかなくなったの。」
「何年くらい前?」
「12、13……お父さんが病気になった年。それより昔のことは何ひとつ覚えてないわ。ずっと嫌なことばかり。頭の上をね、いつも悪い風が吹いてるのよ。」
「風向きも変わるさ。」
「本当にそう思う?」
いつかね。」

(『風の歌を聴け』講談社文庫 p140)

中絶、精神的疾患の傾向、経済的な困難、家族の離散。一人で担うには重すぎる境遇だ。そのうえで彼女は「誰にも迷惑をかけないで生きていけたら(p90)」とか、「立派な人間(p77)」になりたいとも真剣に考えている。

ところで、上記引用には「悪い風」「風向き」と、また「風」が出てくる。
そして、彼女の「悪い風」には「いつも」がつき、「僕」の「風向き」には「いつか」がつく。
「ずっと」や「いつも」は、認知行動療法ではまず疑ってかかるべき認知(考え)である。本当に「ずっと」「いつも」悪いことが続いているのか。そう決めこんでいるのは自分ではないのか。そのように考えるくせがついているのではないか?
その意味で、僕が「風」に対して「風向き」という認知を持ち込んでいるのは適応的である。風向きは「いつか」変わることがあるし、風自体が吹きやむことだってあるかもしれない。

だが、「僕」の発言は、彼女の深刻さに比べ圧倒的に軽く感じる。得意の一般論だ。そして「僕」が東京、あるいは上京前の10代、この町においてどれくらい深く傷ついているかも、直子をはじめ他作品のマテリアルを持ち込まなくては感知できない。

そう。「僕」は本当は深く傷ついているのだ。
そして、他作品のマテリアルを持ち込めば、本作の「僕」について解像度を高めることができるだろう。
例えば、ジェイの言う「優しい子」に含まれるニュアンスは、下記作品で語られる「親切さ」や「やさしさ」よりも心温まるものがないだろうか。

「(前略)親切さと心とはまたべつのものだ。親切さというのは独立した機能だ。もっと正確に言えば表層的な機能だ。それはただの習慣であって、心とは違う。心というのはもっと深く、もっと強いものだ。そしてもっと矛盾したものだ」

(『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド(上)』 新潮文庫 p287〜288)

「お好きに」と永沢さんは言った。「でもワタナベだって殆ど同じだよ、俺と。親切でやさしい男だけど、心の底から誰かを愛することはできない。いつもどこかで覚めていて、そしてただ渇きがあるだけなんだ。俺にはそれがわかるんだ」

(『ノルウェイの森(下)』講談社文庫 p117)

本作の「僕」は深く傷つきながらも、鼠や「小指のない女の子」といったある種、人生の「ドツボ」にはまっている人々に、一般論という適応的思考を伝えている。それは同時に、自身が生きていくために必要な、認知のずらしだからだ。
このずらしのための具体的な訓練が「心に思うことの半分しか口に出さない」ことなのだろう。そしてこの訓練は、21歳時点では途上である。たまには腹立ちの感情も生まれよう。しかしその感情の暴発が、「犬の漫才師」の「パチン……OFF」につながり、「僕は・君たちが・好きだ」が電波に乗って町じゅうに届けられたのだとしたら? 古い冷蔵庫のようにクールになってしまった29歳の「僕」が、21歳の「僕」を描く意味はそこにあるのだ。

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