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読書記録2022 『という、はなし』 吉田篤弘(文)/フジモトマサル (イラスト)

 吉田篤弘の本はいわゆる読書体験と少しだけ違う。
 僕は蒐集癖がほとんどないのだけれど、吉田篤弘の作る本のいくつかは持っていたくなる。
 彼が「クラフト・エヴィング商會」として本の装丁やデザインを手がけているせいもあるのだろうが、持っていたいという願望には「読むもの」としてだけではなく、表紙のデザインから体裁、装丁まで、全体を一つの作品として所有したい気持ちになるのだ。

 本作は大人のための絵本といった趣で、小さな話とイラストレーターのフジモトマサルの挿絵がセットになっている。
 描かれた挿絵の愛らしさも、寝る前にぼんやりとした頭で話を1つ2つ読むにはちょうどいい。
 この作品の面白いところは、通常の物語と挿絵の関係が真逆になっているところだ。

 通常は物語ファーストで本は作られる。
 小説家がまず物語を書き、イラストレーターは書かれた物語を踏まえて想像を補助するような挿絵を書く。
 ところが本作ではまずイラストレーターから絵が届けられて、その絵に合う物語を後付けで書いている。
 これが不思議とマッチしていて、絵の愛らしさに適合するように物語も優しく柔らかく、それが魅力を倍加させているんだろうと思う。

 以前「写真と小説」というタイトルでグループ展を開催したことがある。
 小説と写真を壁に並べて掛け、写真を眺め、小説を手にとってもらい、できれば「読んでみたい」と思ってもらうのが目的という、写真展からはいささか外れたものだった。
 参加してくれた写真家の友人たちはさすがで、読むモチベーションをうまい具合に上げることにチャレンジしてくれていたが、意図が正しく伝わらなかったのか、写真つながりの仲間の中には読後感想のような、表紙写真のようなものを撮れば良いと誤解した人もいた。

 写真と小説のどちらが先に立った方が良いものが撮れるか(書けるか)と言ったら、僕は写真が先にある方がいい。写真はただ1葉の写真がそこにあるだけですでにいろんなエピソードを抱えている。
 そのエピソードを紐解き、別の形に作り変えることができるのが小説の自由さというやつだ(撮影者も物語の上から外れられないという縛りから外れた方が撮りやすい)。

 本作の中で吉田氏とフジモト氏は、まえがきとあとがきでそれぞれが興味深い体験だったと書いている。
 読んでいる最中からなんだかわからないちょっとした違い(違和感ではない)を感じていた理由が、通常の「文先・絵後」を意図的に逆にしてあることによるのだとしたら、その構造まで含めて、また手元に置きたくなる一冊が増えてしまうのだった。

(計7冊中の3冊目)

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