わかりやすさを目指さない

大晦日なのである。
訳のわからないまますぎてしまった2020年もあと半日で終わる。
いつもの年の暮れなら、「今年1年を振り返って」みたいなことをするのだけれど、今年はそんな気分にならない。
それどころか、振り返ったところであまりに抑揚がなさすぎて、抑揚を消し去った平坦さだけが残った、荒涼とした平坦さを呆然と眺めているような気分だ。

思えば2011年、震災の折、津波ですべてが押し流された跡を目にした時も、あまりの荒涼さ、あまりの平坦さに呆然とした。
あの時は物理的に、現実的にすべてがなくなってしまって、かつてあったことと失われたこととの前後のギャップに呆然とした。だが今年の荒涼さは何も変わっていないのにすべてが変わってしまっている見えないギャップが、荒涼としたイメージと結びついているように感じる。

人と会う回数も激減し、勤め先もなくなり、既往症持ちとしては今年は隠棲生活と開き直ってはいたけれど、世間との接点がなくなる、世の中全体から接点が減る一方の生活というのは、やはりどこまでもいびつなものだった。
そのいびつさの中で首をすくめていても仕方がないわけで、浪人生活、隠棲生活を人生最後の夏休み(比喩的に)と決めて、とにかく本を読み、文章を書くことに多くを費やした。その手応えは今しっかりと残っているし、これから先の自分のスタンスを決めるには十分な時間だった。

1年を通じて予感が確信に変わったのは、無駄に言葉を費やさないことと、わかりやすさを目指さないこと、それに完璧を目指さないことだ。
言いたいことを伝えるために、わかりやすい言葉に置き換える。これはとても大切なこと。言い換える作業と迎合して丸く言うのとは全然違う。
「わかるヤツだけわかればいい」と言うと、あたかも切り捨てているようだが、そこをすくい上げる義務はこちらにはない。
それに僕程度の書くことであれば、世の中にはちゃんと受け取ってくれる人は山ほどいる。
世界のすべてを味方にする野望などないのだし、どれだけヘンテコなものを作っていたとしても(書いていたとしても)、世の中には一定数、それに興味を持つ人はいるものだ。まったくのゼロというのはまずあり得ない。
だからそれが独りよがりのわかりにくさでなければ、気にせず放り出せる。

と、これだけのことがわかっただけでも、今年は収穫があった。
刈り取る気満々なのだから、まったくゼロというのはやはりあり得ないのでありますな。

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樹 恒近
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