Ⅴ 名誉の殺人
ⅰ
バルダッサーレ・シピオーネは路地に出ると、愛する貴婦人の庭園から出る際に通り抜けた緑の門扉を閉じた。
彼はしばし夕闇の中にたたずみ、実直そうな顔に甘い微笑を浮かべていた。それからゆったりとした緋色の外套をひっかけると、ウルビーノでボルジア軍の傭兵隊長に抜擢された時のように、背筋を伸ばし、軍人らしい身ごなしで、拍車の音を響かせながらその場を離れた。
路地からカーネ通りへと出る曲がり角で、彼は其処をぶらついていた非常に派手な身なりの紳士に気付いた。その紳士の目は勇ましげな傭兵隊長を見て険しくなった。彼の名はフランチェスコ・デッリ・オモディ、バルダッサーレが愛する貴婦人の従兄である。
傭兵隊長の挙動はいささかこわばった。だがそれでも、見かけた相手に対する礼儀として、羽飾り付きの帽子を脱いで丁重にお辞儀をした。フランチェスコが意図的に行く手を遮っていなければ、彼はそのまま通り過ぎていただろう。
「息抜きの散策かい、隊長殿?」フランチェスコは薄ら笑いを浮かべながら尋ねた。
「お陰をもちまして――そして主の恩寵により」そう応じたバルダッサーレは、皮肉っぽい微笑を相手の非友好的な顔――非常に険悪な目つきと非常に酷薄な口元をしていながらも、古典的な美貌と表現してもいいような浅黒く若々しい顔――に向けた。
予期せぬ皮肉な応答に気の利いた言葉を返せずにいるフランチェスコに対し、「では、急ぐので」と軽く告げると、傭兵隊長はそのまま先へ進もうとした。
「すまんが、同行させてもらうぞ」フランチェスコは緋色をまとった男の横につかつかと歩み寄った。
「結構、私は独りで歩きたいのです」とバルダッサーレは言った。
「君に話がある」
「察しはついていましたよ。だが、こちらは聞きたくない。貴方にとっては重要な問題なのですか、デッリ・オモディ殿?」
「髪の毛一筋の重さもないな」フランチェスコは臆面もなくそう言って笑った。
バルダッサーレは肩をすくめると、左手を剣の柄にさり気なく置き、緋色の外套を押し上げるように鞘を後方に突き出させ、大股で歩き出した。
「バルダッサーレ殿」間も置かずにフランチェスコは話し始めた。「君は随分と足繁く、この辺りに通っているじゃないか」
「足繁く通う目的は何か――あるいは誰かと?」傭兵隊長は鋭く、しかし喧嘩腰にはならぬように言った。
「俺が飽き飽きするほど頻繁なんでね」
「でしょうね。しかし私が飽きるにはほど遠い頻度ですし、率直に言って、これは私の人生そのものに関係する問題なので」
「そいつが気に食わんのだ」猛烈に不機嫌な調子でフランチェスコは言った。
バルダッサーレは微笑した。「気に食わぬことを強いられているのはお互い様では?たとえばフランチェスコ殿――私は貴方が大嫌いだ。だが私は今、ここで貴方が私の横を歩くのを我慢している」
「我慢する必要はないぞ」
「ないでしょうね、貴方が自分の同道が歓迎されておらぬと察してくれれば」
「こういう事態を解決する手段もあるぞ」まことに剣呑な調子でそう言いながら、フランチェスコは剣の柄を掌で叩いた。
「そちらにとっては有効な手段でしょうが」バルダッサーレは言った。「しかし――悲しい哉!――私に許される手段ではない。私はウルビーノ駐屯部隊の隊長だ。私闘は御法度とされている。我が主君ヴァレンティーノ公爵は、閣下の定められた法に反する行為には容赦なさらない。ラミレス殿――このウルビーノの執政長官――は自分自身のためにも法の順守を徹底しておられるのだ。私は貴方を傷つけることで自分自身も痛手を負うような結果を望んでいない。フランチェスコ殿、貴方は単に狡猾なだけでなく、臆病極まりない男だ。私が逆上する訳にはいかぬことを百も承知の上で、面と向かって無礼を働いているのだろう」
その最後の科白を、彼は歯を食いしばりつつ発した――それはまさに、鞭打つがごとき痛烈さであった。表面的には平静に見えようと、この不遜で炎のごとき気性をした武人の胸中には嵐が荒れ狂っていた。このバルダッサーレ・シピオーネとは、後年、大胆にもスペイン王の権威に異議を唱え【註1】、そしてキリスト教圏のスペイン人の中には彼が投げつけた手袋を拾い上げて挑戦を受ける度胸のある者はひとりとしていなかったという剛の者である。そのような男がウルビーノの洒落者ごときの思い上がりを如何に受け止めたかは、容易に推察できようというものだ。
射すくめられたフランチェスコは顔を紅潮させた。「俺を侮辱するか!」彼はかすれた声で言った。
「そうしたつもりだ」バルダッサーレは落ち着いた態度を崩さぬまま答えた。
「貴様の傲慢は罰せられねばならん」
「その必要に気付いてくれたとは有難い」バルダッサーレは微笑みながら彼に相対した。
フランチェスコの渋面は、彼が如何にこの傭兵隊長を理解していなかったかを示していた。バルダッサーレは続けて説明した。「もし今、この路上で貴方が剣を抜けば、私も己の身を守らざるを得ない。それから起こる事態については責めを負わずに済むであろうし、ここには一連の経緯を目撃し、証言してくれる通行人も充分にいる。さあ、続けたまえ、この傲慢を罰してみせたまえ」
フランチェスコの顔からは血の気が引いていった。彼の呼吸はせわしくなった。その唇は奇妙な笑いで歪んだ。
「わかった」彼は言った。「ああ、わかったとも。だが、貴様を殺す時には執政長官のことを勘定に入れてやらねばならんだろうな」
「私の死を前提にした損得勘定で自制しなくともいい」バルダッサーレは微笑みを崩さぬまま言った。「そのような前提が成り立たぬように、私が確実に対処するのだから」
フランチェスコはしばし傭兵隊長を睨みつけていた。それから肩をすくめて悪態をつくと、くるりと向きを変え、大股で歩き去った。バルダッサーレの軽いあざけるような笑声がそれに続いた。
訳註
【註1】: フェルナンドⅡ世によるナポリ王国の支配を指すと思われる。
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英国の作家ラファエル・サバチニによるチェーザレ・ボルジアを狂言回しにした短篇集"The Justice of the Duke"(1912…
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