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生きづらさを愛と光へ!NO.53 母親の私が介護から手が離れたといって、中3の娘(受験生)の生活リズムは変わらない。

91歳の義母が、ショートステイ先の施設から救急車で運ばれたのが、今年の2月24日だった。
それから、自宅から近くのかかりつけの病院へ転院し、そこからは、施設から、2人がかりで迎えに来て、連れて行っていただくという段取りで進めた。

と言うのも、義母は入院中も、時々家に帰りたいと言っていたからだ。
義母が救急車で運ばれた時、心不全、肺炎とどちらも命に関わる診断がされていたので、私たちはここでもまた、覚悟を決めていた。

介護をしていると、何度となく、覚悟を決める時があるもので、私たち夫婦は今度は本当に覚悟を決めとかないとね、と言いながら、今まできている。

義母と同居し始めたのは、義母が82歳の時だった。
それまでも病院へは通っていたが、私たちの家に増築し、そこへ仏壇を新しく買って、義母の家にある備え付けの仏壇の御霊抜きをしていただき、新しい仏壇の方に御霊入れをしていただいた。
丁度その日、義母は、実家の玄関先で軽く転んだそうだ。(後々知ったのだけれど)

それから夫と義母と、住民票の住所変更に行って、車から降りる時、尻餅をついて、そこから動けなかったらしく、結局骨折していた。
そこから色々な病気が発覚していき、入退院を繰り返し、私は介護人生9年程である。

今はほとんどやることはないが、時々面会へ行くくらいで、後は、施設代の支払いなどである。
もうほぼほぼ手が離れたと言って良い。

その分今は、娘に手をかけるべき時だと思う。
娘は、発達障害吃音症と診断されている。

今になって思うと、やはり、介護と子育てはできれば同じじゃない方が良い。
まあ、状況、家庭の事情ってものがあるだろうけど…

私が義母の介護をしていた9年間本当に色々なことがあった。
しかし、義母には色々良くしてもらったし、子育てにおいても感謝するところがたくさんある、そんな気持ちがあったからこそ、9年間耐えれたのかもしれない。

と言うか、そんな綺麗ごとばかりでないのは確かであるが、トータルで考えると、ありがとう、感謝としか言葉は見つからない。

私も若い時は若気の至りというものがあったにはあった。

義母にも、きつい言葉を言ったこともあるし、夫も義母(実母)に対し、そんな一面もあった。
私たちも歳を重ねたということである。
夫にとっては母でも、私にとっては義理の母だから、実母が10歳でこの世を去ったのもあって、義母のことをなかなか母として、受け容れられなかったのも事実である。

いざ仕事を辞めて、介護をするとなった時、極低出生体重児で生まれた娘の子育てと義母の介護と、初めの方はそこまで感じられなかったが、やがて娘は思春期に突入、その頃から義母と娘の折り合いが悪くなった。

2人は毎日のようにバトルを繰り広げていた。
私は義母の肩を持つこともあったが、いくらそれが正しかったとしても、娘からキレられたりした。
それからは、どちらの肩も持たないことを決めた。

そのうち義母の認知症の症状が色々出てきて、夜中に幻聴、幻覚、私は一階から呼ばれて、別な人格から、とてもきついことを言われ、高笑いされた。
もう、なんでこんなこと言われないといけないの?と悲しくなり、介護をやる気もなくなったが
次の日にはケロッと、いつも通りに接さないといけない、そう思いいつの間にか元通りになる。

義母にも、娘にも、私が否定したことを言った時には不思議と、全部言ったことは、私に跳ね返って、反抗的な態度や言葉で返ってきた。
それを学んでからは、否定することは一切言うのを辞めた。

これまで介護をする道を選んだが、ふと、振り返ると、何にも、残らないなと言う想いもある。

まだ認知症もそんなに進んでない頃、義母は、トイレが間に合わなかったり、シャワーやお風呂に入れた時には、ありがとう、ありがとうと、数回言ってくれた。
あ〜さっぱりした〜と。
ご飯の時も、たまには出したものに手をつけないこともあったが、ほとんどのものは美味しいと言って食べてくれた。

介護に関することは度々このnoteにも書かせていただいているが、あんなに介護介護とやっていた毎日だったが、終わる時はピタッと終わる、いや、実際にはじわじわかもしれないが…

もう介護からは手が離れ、やりたいことを少しづつやれるようにはなった。

昨日、長男と久々LINE通話をしたので、介護人生を振り返った話などもした。

私は、パートで仕事をしていたが、これも状況だと思うが、義母の介護をする選択をした。
入退院を繰り返していた頃、今中3の娘は年中から年長さんくらいだった。

病院から退院のタイミングで考えた訳で、さあ、これから一緒に住むぞーとなった時に、大腿骨を骨折して、入院した義母だった。

退院して、さあ施設に、とはならない訳で、足腰も精神力も、人並外れた強さの持ち主の義母が、まさか、そこから介護される人生に突入とは考えにくかった。
気がつけば、数年が経過、途中で施設に完全に入所していたが、2年半ほどで、どうしても家に帰ると言って聞かず、施設から連絡をもらった。
それから再び家での介護が始まった。

その施設に入所してもらう時も、こちらの言うならばお願いだった。
苦渋の決断をするしかなかった。
田舎独特の役員などが三つ被った。
そこそこ忙しく大きな役員で、義母と娘を見ながら、役員をするのは無理だろうと、夫と話し合ってそうなった。

介護を理由に地区の役員をやらないのは、今この瞬間なら、出来そうな思いはあるが、その時は、そんな雰囲気はなかったし、と言うより、介護を理由にしたくなかっただけかもしれない。
時代的なものもある。
その直後、コロナ禍に突入していく。

あんなに一生懸命にやった役員も、次の役員の方は、コロナ禍ということでほとんどのことを逃れられた。
人生そんなものである。

義母は、糖尿病はあったが、至って足腰は人並み以上に元気だった。
そりゃ家にも帰りたくなるわと、今なら思えるが、施設に、月に2回くらいは行っていたので、差し入れ、面会、そして、私は申し訳なさもあったので、会えない期間、手紙を書いて荷物に入れたり、孫たちの写真などを入れたりした、それが良くも悪くも義母を家に帰りたいと言う気持ちを強めてしまったのだと思う。

そのことがあって、今の施設ではそんなことは一度もやっていない。

介護を9年ほどやってきて、よく頑張ったねと、介護を知っている介護士の方や看護師、医師などは言葉をかけてくださる方もおられる。

ただ、何も介護に関わったことがない人にとって、理解できない部分もあり、そういう人から、仕事何やってるの?という問いがあった。
まあ、外には出てないですが、色々とやってることはあるだとか、介護をしてたので、と話したとしても、そので会話は途切れる、そんなものだった。

私が介護をして、その後外に働いきに行ったことはあったけれど、私が家にいる方がうまく家の中が回ることもよくわかったつもりである。

昨日電話で長男と話したが、唯一、パートの仕事の面接に落ちたことが一度だけある。
その時たった一度だけ。

求人サイトには、週に1日でも、2日からでもOK的なことを書いてある。

私は役員三つやってます。
その行事は優先します。
週に2日とか3日出ることは可能です。
面接も良い雰囲気の中終わったが、言いたいことを伝えすぎたのもあり人生の中で唯一面接に落ちた。

しかし、盆正月、ゴールデンウィークと忙しいところで、夜中の2時に起きて仕事にでなくてはならない。
正直、落ちてホッとした。

これが万が一受かっていたら、盆正月、ゴールデンウィーク、あったもんじゃない。
お金は入るだろうけど、それだからって、高い靴、バック、洋服とか手に入れたとして、それが幸せなことなのか?と考えた時、私にとっての幸せはそこじゃない、と思う。

やっぱり、子どもたちも2人は大人になり県外で働いて生計を立てているので、立派だと思う。
親バカ?かもしれないが、普通のことかもしれないが、そんな離れて暮らす息子たちや、親戚が集まる大型連休、それこそ、ご飯や、お土産、お布団色々お金は出て行くが、それが私の幸せである。

良い仕事をして高いお給料をもらう人を偉い、素晴らしいという考え方もあるが、私はそれはそれ、自分は自分と思っていて、高いお給料をもらう人だけを高評価するのは違うとも思う。
そういう人たちも素晴らしいとは思う反面、それだけで人を判断するのは違うと思う。

介護をしてきて、手が離れてみて思うことは、心の中にしか記憶は残らないってこと、年月が経てばわかることもある。

義母の記憶ももうないかもしれない。
話しているとどうにか思い出すが、いつまでその状態でいられるかもわからない。

私は介護をやってきたが、自分軸ではなく他人軸で長い間生きていたのもあり、やりたいことは後回しになった。
むしろ、自分を最優先する人生だったとしたら、おそらく介護の道は選んでないと思う。
これで良かったのだと思うし、これが正解だった。

今、中3で受験生の娘を優先で考えている。
がなかなか娘は何一つ変わらない。
変わっているとするならば、絶対にわからないが、娘の心の中ではないだろうか。

11月くらいには進路も決めないといけない。
親のできることよりも、娘本人が考え動くことを願っている。


今日も最後までお読みいただき、心よりありがとうございます^ ^







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