政戦両略から見た戊辰東北戦争
はじめに
戊辰戦争は政治体制のあり方をめぐる戦いで、対立の根本に政治思想が関わっているところで戦国の合戦とは異っている。そうした「わかりにくさ」が、様々な誤解を生んだ。
古来「戦争は政治の延長」と、繰り返し論じられているが、戊辰戦争は政治の延長ならぬ政治そのものであって、領土獲得戦争とは異なる位置づけとなる。
小説やドラマなど創作世界の戊辰戦争は、登場人物の感情の動きを美しく描くため、人々の思想信条は極端に美化される。そうした現実の歴史とかけ離れたフィクションを一般の人々はノンフィクションだと思い込む傾向が強い。
戊辰戦争の実相が理解されないのは、学界にも問題がある。研究の重点が思想史や政局史に傾きすぎ、軍事史はといえば、その傍らで細々と研究されてきたが、政局史と軍事史の研究は個別に進められ、まったく噛み合っていない。
この記事で筆者が述べる内容は、軍事史だけでは説明不足にならざるを得ないことを、政局史から補おうとするものだ。
慶応4年(1868)正月の鳥羽伏見の戦いは、前年12月9日の王政復古で樹立された新政権を、旧政権の継続を望む守旧派が打倒しようとした戦いだった。単純に見るなら新旧の対立ではあるが、諸藩いずれも新か旧かで意思統一を果たしていたわけではない。守旧派と見なされる会津藩にも新政府に恭順すべきことを主張する者がいた。その逆に、朝廷のなかにも佐幕的な姿勢を示した公卿がいた。旧政権を打倒したところで、新たな政権が善政を布くとは限らない。それどころか内乱が長引けば列強の介入を招いて植民地化の虞もあるという、いかにも公卿らしいマイナス思考ゆえのことだった。このような考え方は、薩摩藩の一部重臣にも見られる。だから倒幕と佐幕との対立は藩単位でまとめて考えられるものではない。
この記事は、会津戊辰戦争を軍事史として解き明かすことが主題ではあるが、単に軍事史のみでは理解不能な出来事が多い。そこで、思想の戦いという戊辰戦争の本質を見据えつつ論じることにしたい。その反面、政治思想に拘泥せずに軍事的な観点から論ずべき点は確実に押さえたい。
関東以西の鎮定と東征計画
政局史では鳥羽伏見の新政府側勝利を兵器の差からくる必然であるとみなしている。しかし、軍事史からすれば旧幕府軍の編制装備は新政府側の主体となった薩長両藩をはるかに凌ぎ、勝敗は偶然の結果とみなしている。新政府の事前計画では京を放棄して天皇を秘かに動座させることを予定していたが、逆に鳥羽伏見での勝利を想定した計画は存在しない。要は当事者の新政府さえ予想だにしなかった結果なのだ。
意外な勝利を獲得した新政府は、西日本諸藩の帰順を促した。関東以西の諸藩いずれも抵抗せずに恭順したのは、思想を云々するよりも、鳥羽伏見の戦いに勝利した新政府軍の実力が誇大評価されたためである。この見えざる圧迫には会津藩とともに守旧派の主体となっていた桑名藩までもが脅威を感じ、新たに藩主を擁立してまで新政府に恭順したのだから、親藩や譜代が抵抗を選択しなかったのも当然だ。軍事的な圧迫を撥ねのけるほど強い意志で結束した藩はなく、いずれも揺れ動いていた。
あっさりと関東以西を鎮定してしまった新政府は、いよいよ江戸攻め=東征を計画した。2月に入ると徳川慶喜は江戸城を退去したうえ上野寛永寺で自らに謹慎を課して、謝罪と恭順の意志を表した。徳川氏の処分が政治決着する可能性も現れると、残る課題は会津藩の処分のみとなった。それも東北地方最大の仙台藩が会津鎮定に尽力する意志を示したので、戦争をぬきにしての全国統一の可能性すら存在した。だが、徳川氏は巨大な組織であり、恭順の意思統一は不可能とも思える難題だった。新政府への恭順に不満を抱いた守旧派は、主家徳川氏の意志に反してでも新政府に抵抗する構えを見せていた。
江戸開城交渉と会津処分
鳥羽伏見戦後、徳川氏に対して強硬姿勢を示したのは、戦争回避に尽力していた松平春嶽ら公議政体派だった。徳川慶喜を新政権に迎え入れるという条件を示し、慶喜も受諾する方向でいたにもかかわらず、その努力は鳥羽伏見の戦いで無に帰した。鳥羽伏見戦後、江戸へ退去した慶喜は春嶽を通じて謝罪恭順を申し入れたが、春嶽は慶喜が自らに謹慎を課すまで申し入れを拒否したほどだった。寛永寺の大慈院に移った慶喜は、春嶽に再度の取りなしを依頼したほか大奥や輪王寺宮に救解を依頼、その一方で抵抗の動きを見せる幕臣たちに恭順を求めた。
これらの和平交渉が進められるなか、3月6日に甲州勝沼で近藤勇率いる甲陽鎮撫隊が新政府軍と交戦した。その第一報が駿府の東征大総督、有栖川宮熾仁親王のもとに届いたときは、おりしも輪王寺宮公現法親王との和平交渉の最中のことだった。事実上のトップ会談が決裂に終わったのは申すまでもないが、勝海舟と山岡鉄舟の尽力が実り、結局のところ江戸無血開城が決まったのは世上よく知られているとおりのことだ。
このように和平の雰囲気が現れるなか、大総督府は会津藩に対して藩主死謝という強硬姿勢を示していた。奥羽鎮撫総督の九条道孝からの会津藩処分案についての問い合わせに対して、大総督が返答したという形式を踏んでいるが、実際には現地の下参謀である世良修蔵から大総督府参謀の西郷隆盛と林通顕に対する問い合わせと見られる。大総督府が返書を発したとき、すでに西郷は和平工作のため東海道を先行していたので、この厳しい判断は林が下したものと思われる。
林通顕は公議政体論を唱えていた宇和島藩士だった。前述のとおり、公議政体派は鳥羽伏見以前に戦争回避のため奔走したことが、開戦によって水泡に帰した。それわ思えば開戦責任の追及が倒幕派より厳しくなったとしても不思議ではない。
五箇条誓文と戊辰戦争
およそ戦争とは隔絶した印象を抱く人も多かろうが、歴史の教科書には必ず取り上げられる五箇条誓文は、江戸開城交渉と並行して策定されている。この五箇条は天皇が神に誓う形式で示された新政府の政権公約で、なかでも第一条の「広く会議を興し万機公論に決すべし」は、わが国の民主主義のはじまりと位置づけられている。
この一条は、素案の段階で「列侯会議を興し」になっていた。列侯会議とは諸大名を議員とする封建議会を意味しているが、そこから列侯の二文字が消されたことは、すでに新政府が藩の解体を意識しはじめていたことを表す。戦争遂行には藩という組織に頼らざるをえなかったが、諸藩から供出した人員による混成部隊が編制されるなどの実験的な手法も試されている。
宇都宮失陥と彰義隊結成
甲州勝沼の戦いのほか、関東各地で小規模な新政府と旧幕府抗戦派との衝突はあったが、江戸城での籠城だけは回避され、4月11日に江戸城は新政府が無事に接収した。無血開城は、横浜で事態を見守っていた各国外交官を安堵させ、政治的には大成功だったといえる。しかし、軍事的な成果は戦争を先送りしただけにすぎなかった。旧幕府陸軍の多くが集団脱走して、武装解除が大失敗となったのだ。
関東では江戸開城前後、政権交代の混乱に乗じて農民一揆が多発した。一揆は庄屋などの中間支配層を標的とし、村役人の改選、小作料の減免などを要求した。下野では藩の領域を横断した大一揆が、宇都宮で3万人の大集団を形成した。この不穏状態のなか、会津藩兵の一部が宇都宮藩領に越境侵入してきた。絶体絶命の危機を迎えた宇都宮藩は、新政府に救援を求めた。それは会津藩との武力衝突をも辞さないという意志を示したも同然のことだった。
新政府としても宇都宮藩を救援すべきことはわかっていたが、上野寛永寺に集結した守旧派が彰義隊を結成したため、江戸の情勢も一触即発の状況だった。とりあえず宇都宮へ派遣された偵察部隊は、大鳥圭介が率いる旧幕脱走軍に遭遇して敗退した。そのあげく宇都宮城は脱走軍に占領され、城下町は2000戸が焼失して灰燼に帰して、救援は失敗した。
新政府軍は宇都宮を奪還したが、政治的な影響を考えるなら救援失敗の段階で手遅れになっていた。新政府に恭順しても、けして安全ではないことを如実に示してしまった。このことが東北の戦乱を招いたといっても過言ではない。
白河失陥と奥羽越列藩同盟の結成
慶応4年は4月の後に閏月がある。閏4月20日、会津藩は旧幕脱走軍と協働して、新政府直轄領(もとは幕領)の白河を攻撃占領した。その同日、藩論を覆した仙台藩が新政府軍奥羽鎮撫総督府参謀の世良修蔵の捕縛を図るも、勢いあまって殺害した。ことここに至って東北戦争は不可避となった。
仙台藩と米沢藩が近隣諸藩を従えて奥羽列藩同盟を形成した背景には、宇都宮失陥の影響が認められる。仙台藩が寝返ったことで、東北地方のパワーバランスは新政府側が圧倒的不利な状況に陥った。そして、彰義隊と対峙する新政府軍の江戸進駐部隊が東北まで救援に来れるかどうかは、宇都宮市街が灰燼に帰した事実が物語っていた。そしてまた、東北諸藩が連合して守備していた白河も、救援を求める暇も無く落ちた。
こうなると中小規模の藩が新政府側に帰順しても抵抗勢力に攻撃を躊躇させるには至らないのは歴然となった。ゆえに中小藩は周辺大藩の動向に従うほかない。
北越でも長岡藩などが列藩同盟に加わって新政府軍に抵抗、それ以後の主戦線は両軍が大兵力を差し向けた越後だったが、全体の戦局を大きく動かしたのは白河口の攻防だった。
白河の攻防
新政府軍は閏4月25日に白河へ奪還攻撃を仕掛けたが撃退されている。5月1日、新政府軍は前回の敗戦を教訓として、充分な偵察を行ない、綿密な計画のもとに奪還作戦を開始した。
攻める新政府軍は総勢700を3隊に分け、まず中央正面から攻勢を仕掛け同盟軍の注意を引きつけた。そこへ左右両翼から別働隊が攻撃を開始した。
守る同盟軍の兵力は2000を数え、はるかに優勢であったが、各部隊相互の連携に欠け、左右両翼の陣地を各個に破られた。白河城は高い石垣に守られた要害ながら、同盟軍は新政府軍の中央に引き寄せられたため、破られた左右両翼から背後までも包囲され、城に戻ることが出来なかった。離れた部隊間の連絡手段が狼煙のみだったにも関わらず新政府軍が分進合撃を成功させたことは驚嘆に値する。
5月15日の上野戦争で彰義隊が壊滅したことは、同盟軍にとって深刻な問題となった。行動の自由を得た江戸所在の新政府軍部隊が白河方面へも増援されることは時間の問題であり、それ以前に白河を攻撃すべきことは誰の目にも明らかだった。
もとより白河は関東への通路として重要地点であり、ここを奪わなければ同盟軍は南下することができなかった。早期に攻勢を準備すべき場合だったが、同盟は結成されてから日が浅く、諸藩部隊の統制すら覚束なかった。仙台、会津、二本松、棚倉、相馬藩が合同で白河を攻撃したのは、もはや新政府軍増援来着目前の二六日のことだった。
新政府軍は、多方向から白河に迫る同盟軍に対して守勢にまわり、冒険を避けて防戦に徹した。撤退する同盟軍を深追いせず、つけこむ隙を与えずに戦いを終えている。
同盟軍は白河を繰り返し攻撃しては撃退された。たとえば、6月12日の攻勢は、新政府軍が待望の増援を得て意気揚がるところへ攻めかけ、やはり撃退されてしまったのだった。
この頃、新政府軍は標準装備だった先込銃を新式の元込銃に転換しはじめ兵器の面でも戦力が増強されていた。同盟軍には旧幕府陸軍から脱走した優良装備の歩兵部隊があったが、敗戦続きだったため次第に武器弾薬を消耗し、兵器の性能差は逆転した。通説では、新式兵器を用いた新政府軍には、旧態依然の同盟軍では対抗できなかったというが、それは、この段階まで戦局が進んでからのことなのだ。
兵数を増した新政府軍は、阿武隈川対岸の丘陵地帯まで防禦線を前進させ、難なく同盟軍を撃退したうえで、策源地として有用な市街地をも守ったのだった。
白河口軍の北上
同盟軍にとって白河の戦況は手詰まりに至ったが、こと情報管制に関しては優れており、日光口に所在する大鳥軍の士官は七月に至っても白河方面の敗勢を知らなかった。ミッドウェー海戦の惨敗を海軍が隠蔽し続けたのと同様の措置だった。もし、白河での敗勢が公になれば、同盟は内部崩壊したかもしれない。政局史で説明される「同盟が政治思想によって意思統一されていた」というのは、軍事史からすると寝言でしかない。同盟は諸藩が「強きに靡く」ことで結束を維持してきたのだ。ゆえに白河攻防戦の実相は隠蔽されたと考えるべきだろう。
新政府軍は6月16日に太平洋岸の平潟に上陸作戦を敢行、それを海道軍と呼び浜通り地方を北上させた。6月23日には白河口軍が半数を棚倉攻略に向かわせ、半数を守備に残した。
同盟軍は新政府軍の動向を掴んだが、あえて棚倉への増援はせず、白河城の守備兵が半減する機会に攻勢をかけた。だが、白河での攻勢は撃退され、孤立した棚倉城は24日に陥落した。
棚倉占領によって白河口軍は北上が可能になったが、平城を攻めあぐねた海道軍の進撃が遅れていたので、その作戦指導のため大山巌を海道軍に出張させ、7月13日に平城を落とした。作戦経過は、概ね5月1日の白河攻防戦をなぞっており、分進合撃を企図したものといえる。
白河にせよ平にせよ、守備側が城外に防禦線を構えたのは、城が築かれた当時より銃砲の射距離が増しており、籠城しても城内には安全地帯が確保できないためだろう。
白河口の新政府軍が中通りで北上を開始すると三春藩が無血開城し、次は二本松が白河口軍の進撃目標となった。同盟軍の要請に応じて諸方面に兵力を派出していた二本松藩は、手元に残した兵力が乏しく、同盟に対して援軍を要請したが受け入れられず、また、派出した藩兵の帰還も許されなかった。
絶体絶命の窮地に陥った二本松藩は、降伏か抗戦かで論議がもつれるうちに新政府軍が来襲し、抗戦を決意した。正規兵が出払っていたため、元服前の少年たちまでもが防戦に出陣し、多くの犠牲を払いながらも大健闘した。
城の南西、大壇口に陣取った二本松少年隊に、もとより城を守りきる力はなかったが、藩主を脱出させ、本丸に残った家老らが腹を切るまで時を稼いだのは天晴れというほかない。猛将野津道貫に挑みかかり、感銘を与えつつ討死した青年もいた。 新政府軍は二本松城東南方向から阿武隈川の防禦線を突破、敗走する二本松兵を急追撃しつつ城下に迫った。その猪突猛進によって、大壇口など他方面で抵抗を続ける二本松兵は、城へ戻るいとまもなく、わずか数時間後には本丸が自焼して勝敗が決したのは、7月25日のことだった。
会津若松の攻防
二本松攻略なって、白河口新政府軍は、その占領地域を会津領と接することとなった。この頃、膠着状態だった北越方面で同盟軍の補給源だった新潟港を新政府軍が攻撃占領、それとはほぼ同時に占領した長岡城を同盟軍に奪回された。このような大波乱があったが、結局は新政府軍の優勢が決定的になった。
旧暦の秋8月ともなれば、遠からず会津に積雪期が到来する。薩長土のいずれも雪とは縁遠い国であることを考えれば、早期決着こそ望ましい。同盟軍の根幹たる会津藩を降伏させれば、枝葉たる同盟諸藩は労せずして降伏すると算段し、白河口軍は会津若松への進撃を決意した。二本松からの進路は種々議論があったが、最終的には母成峠から会津領を目指すこととした。母成峠は他の進撃路よりも攻めやすく守りにくい地形だった。
母成峠の防備を担当した大鳥圭介は、三線の陣地を構えた。その本防禦線にあたる第三陣地は実に巧妙な配置で稜線のやや後方に位置し、攻め手から見えにくい。つまり、攻め手が峠の頂上に達したとき、至近距離から集中射撃を可能にするように工夫されていた。当時は西洋兵学にも隘路で複線の防禦陣地を構える戦術は存在せず、のちに編み出された縦深防禦の概念を先取りしたかのような新戦法だった。
8月21日、新政府軍は中央に全砲兵を集中させ、圧倒的な火力で第一陣地を突破し、その間に右翼から第二陣地の側面を襲わせた。左翼からも第三陣地の後方へ迂回させようとしたが道を誤り、背面に到達したのは戦闘終結後だった。
満を持して敵襲を待っていた大鳥軍は、不運にも恐慌状態に陥っていた味方に背後から第三陣地を誤射され、無念の撤退を余儀なくされた。
母成峠の背面への迂回に失敗した川村純義は、独断で十六橋まで突進した。猪苗代湖の北西側の地形は磐越西線が急勾配を避けて蛇行するほどの難所で、十六橋さえなければ若松へ侵攻する新政府軍は北へ大きく迂回しなければならなくなる。
会津軍は、十六橋を破壊せんとし、まさに橋を破壊しかけたところへ、独断突出した川村隊が十六橋に来襲した。
迎え撃つ会津軍の足並みは揃わず、一部部隊のみ戸ノ口原の低地に進出し、多数は低地を取り巻く高地で防禦線を形成していた。高地の諸隊は味方の苦戦を見ながら動かず、新政府軍の後続部隊が到着すると、防ぎきれずに撤退した。
十六橋を確保した新政府軍は、8月23日の早朝から若松へ向けて攻撃前進を開始、午前8時には若松城下に達した。
会津軍の城外出撃諸隊の抵抗が微弱だったのとは逆に、城内に残っていた老幼婦女子は激しく抵抗し、正規兵が敵わなかった新政府軍諸隊を相手に、多大な犠牲を払いながら、ついに日没まで城を守りきった。
白河口の新政府軍は総勢を集めても三千に達しない程度の兵力しかない。強襲で城を落とせなければ、包囲するにも数が足りず、手詰まりとなった。北越方面の諸隊が若松に到着するまで包囲線を形成できなかったのだ。
会津軍は諸方面に派出していた諸隊が若松に戻り、また、城内の諸隊が出撃する場面もあり、しばらく城外での戦いも継続したが、1ヶ月におよんだ攻防の末、完全包囲に陥り降伏した。
参考文献
『戊辰役戦史』大山柏 時事通信社 1968
『東北戦争』山田野理夫 教育社 1978
『戊辰戦争―敗者の明治維新』佐々木克 中公新書 1977
『戊辰戦争論』石井孝 吉川弘文館 1984
『明治維新観の研究』田中彰 北海道大学図書刊行会 1987
『奥羽越列藩同盟の基礎的研究』工藤威 岩田書院 2002