大山 格

歴史系ライターです。 主に歴史雑誌で書かせて頂いております。

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最近の記事

本山白雲の伊藤博文像

秋の文化財ウィークに数日限定で公開  JR西大井駅近くにある『伊藤博文公墓所』は、初代内閣総理大臣を務めた伊藤博文とその妻、梅子が眠っている。ふだん、墓所は立ち入り禁止だが、11月の文化財ウィークには数日限定で公開され、参拝することが出来る。  墳墓が上円下方の形態であることは大山巌の墳墓と同様ながら、それよりなにより御一覧をオススメしたいのは、本山白雲作の伊藤博文公の胸像だ。あたかも生けるが如く、いまにもしゃべり出しそうだ。 表情が変わる  見る角度によって、あるいは

    • ためしに、つぶやいてみよう。 どんなもんじゃ?

      • 念仏平和主義を嫌悪しています

        哀悼の意を表することに異を唱えたりはしない  吾輩は念仏平和主義が嫌いだ。犠牲者を悼み、「おかわいそうに」と同情すれば平和が来るのか。その「おかわいそうに」の裏側に生き残った人々を卑怯だの非国民だのと論う連中がいる。  命からがら生き延びた人々を罵れば平和が来るのか。  哀悼の意を表することに異を唱えたりはしないが、あるいは逃避し、あるいは屈辱に耐え、生き延びた人々にこそ、学ぶべきことがあると、吾輩は思う。 山手大空襲について思う  吾輩が生まれ育った地域は、渋谷区

        • 陸上自衛隊61式戦車の思い出

          吾輩は61式戦車が好きだ  吾輩は1960年生まれ、陸上自衛隊の61式戦車は一つ年下の同世代である。若かりし頃、陸自の滝ヶ原駐屯地に体験入隊した際、富士の裾野の火山礫ばかりの広場に連れられて、61式戦車の外側にしがみついた状態でボコボコの荒れ地を走行するというプログラムがあった。ギヤチェンジの度に動揺するので、振り落とされないようガッシリ手すりを掴んでいた。それが1989年か90年か、おおよそその頃のことだった。  別な機会に74式戦車の車長席に立たせてもらって走行したこ

          2023世田谷観音の特攻桜 その1

          世田谷観音の特攻桜撮り続けて20年以上  世田谷観音さまにはソメイヨシノの老木が何本かあります。そのうち特攻観音堂の前にある一本が「特攻桜」と呼ばれています。まず桜が先に植えられ、その傍に観音堂が建てられたそうで、もとは名も無い普通の桜の木だったのでしょうし、霊魂を宿すような由縁もありません。しかし、その咲きぶり、散り行く姿などは、何事かを語り伝えるように思えてなりません。  その「何事か」を写真に撮って伝えられないかと、もはや20年以上も撮り続けています。  たとえ先

          2023世田谷観音の特攻桜 その1

          政戦両略から見た戊辰東北戦争

          はじめに  戊辰戦争は政治体制のあり方をめぐる戦いで、対立の根本に政治思想が関わっているところで戦国の合戦とは異っている。そうした「わかりにくさ」が、様々な誤解を生んだ。  古来「戦争は政治の延長」と、繰り返し論じられているが、戊辰戦争は政治の延長ならぬ政治そのものであって、領土獲得戦争とは異なる位置づけとなる。  小説やドラマなど創作世界の戊辰戦争は、登場人物の感情の動きを美しく描くため、人々の思想信条は極端に美化される。そうした現実の歴史とかけ離れたフィクションを一

          政戦両略から見た戊辰東北戦争

          あえて泥をかぶる―榎本武揚の生き方

           江戸開城によって徳川家は八〇〇万石の所領を失い、七〇万石の静岡藩として再出発した。大幅な所領の削減で禄を失った徳川家の遺臣に生活の道を与えたい。箱館(現在の函館)に地方政権を築こうとした榎本武揚の目的は、そこにあった。  榎本は実力を行使して箱館と周辺地域を占領した。この地を開拓した暁には徳川家の血筋を元首に迎え、薩長藩閥のもとでは生きていけない人々が暮らす地域にしようと考えていた。だが、資本がなかった。苦し紛れに三〇〇万坪の土地をプロシヤ(のちのドイツ)商人ガルトネルに九

          あえて泥をかぶる―榎本武揚の生き方

          小藩の幕末サバイバル

           旧幕府と明治新政府とが武力衝突した戊辰戦争に際し、三春藩(福島県)は京都を巡る政局に注目していた。そのころ、いずれの藩も旧幕府につくか、新政府側に立つかは慎重で、多くは日和見だった。わずかに五万石の三春藩は、北には東北地方最大の仙台藩、西には会津藩があった。もちろん近隣の大藩の動向は死活問題だが、三春藩の首脳部は中央の情勢にも着目し、その甲斐あって戦火を被らずにすんだ。  仙台藩は、はじめ新政府の側についていた。会津藩の処分が難航するなかで、仙台藩は東北諸藩に呼びかけて奥羽

          小藩の幕末サバイバル

          攘夷の果てにあるもの

           ペリー来航によって欧米列強との貿易が始まると輸出品目となった絹や茶の値が暴騰し、やがて諸物価に波及していった。庶民の生活が脅かされたのにとどまらず、関西の両替商も困惑した。金銀交換比率が国内と国際相場で大きく異なるため、突然の国際化によって対策もないまま大打撃を受けたからだった。こうした不利益は攘夷という感情論に結びついた。外国人を国内から力ずくで追いだそうというのだから無茶な話だが、武家社会の下層にいた人々が異人斬りをするまでに至った。  薩摩藩の首脳部は、こうした無謀な

          攘夷の果てにあるもの

          賢者は改革せず―二宮尊徳

           徳川家康の謀臣として名高い本多正信は「百姓ハ財ノ余ラヌヤウニ、不足ナキヤウニ治ムル事道ナリ」と統治の姿勢を説いている。いつしかそれが家康の発言と誤解されたうえ、「百姓は生かさず殺さず」という表現に置き換えられている。その言葉どおりに江戸時代の農民は食うや食わずの生活を強いられたわけだが、時期によって程度の差があった。  江戸幕府が開かれてしばらくは開発ブームが続いた。耕地面積が広がるとともに人口も増加し、江戸時代中頃には三〇〇〇万人に達しているが、後半に入ると増加は頭打ちに

          賢者は改革せず―二宮尊徳

          やっぱり秀吉はスゴイ

           織田信長が本能寺の変で歴史の表舞台から去る一年前にあたる天正九年(一五八一)のことである。信長の重臣として中国地方の攻略を任されたた羽柴秀吉は、鳥取城攻めという困難な命題に直面していた。  姫路城を根拠地とする秀吉が抱えていた軍勢は、およそ二万だった。中国地方で敵対関係にあった毛利輝元は五万ほど動員できる。本格的な武力衝突となれば信長に援軍を要請するほかないが、織田氏は四方に敵対勢力を抱えており、必ず来てくれるとは限らない。そして、秀吉には猛将と呼べるほどの強さがなかった。

          やっぱり秀吉はスゴイ