言葉という仮面で隠せない存在のグロテスクさ
ほとんど引用からなるエッセーです。
『存在の耐えられない軽さ』p308
一九八〇年になってやっと、われわれはサンデー・タイムス紙上で、スターリンの息子ヤコブがどのようにして死んだのか、読むことができた。彼は第二次大戦中捕虜としてドイツの収容所にイギリスの士官たちと一緒に入れられていた。捕虜は共同の便所を使っていた。スターリンの息子は汚しっぱなしにした。たとえそれが当時世界でもっとも権力を持つ男の息子の糞であるにせよ、汚された便所を眺めるのはイギリス人には気に入らなかった。彼にそのことを注意した。彼は怒った。イギリス人たちは再三文句をいい、便所をきれいにするように強いた。彼は激怒し、論争し、けんかになった。結局最後に彼はキャンプの司令官に聴聞会を要求し、司令官が紛争を裁定するよう望んだ。しかし傲慢なドイツ人は糞について語ることを拒否した。スターリンの息子は屈辱に耐えられなかった。天に向かってロシア語でひどい悪態をつき、収容所の周りに張りめぐらしてあった電流が流れている有刺鉄線に向かって駆けていった。そしてそこに飛び込んだ。もうけっしてイギリス人の便所を汚すことのない彼の身体はそこにぶら下がったままになった。
(略)
スターリンの息子は楽な生涯を送ったわけではない。彼の父親はある女との間に彼をもうけたが、後にあらゆる証拠が伝えるところによれば、その女をスターリンは射殺した。すなわちスターリンの息子は神の子(なぜなら彼の父親は神としてあがめられた)であると同時にまたその神によって却下されたのである。人々は彼のことを二重に恐れた。自分の権力で(何はともあれスターリンの息子だった)害を与ええたし、自分の好意によっても(父は却下された息子を罰するかわりにその友達を罰するかもしれなかった)害を与ええた。
拒否と特権、幸福と不幸という両極が交換可能であり、人間の存在の一方の極から他方の極までがたったの一歩であることをこれほど具体的に感じさせたのはスターリンの息子以外にはいない。
やがて、戦争が始まるとすぐ彼はドイツの捕虜となり、彼は理解不可能でよそよそしい国、本質的に気にくわない民族に属している他の捕虜たちから汚いと文句をいわれた。考えられる最高のドラマを両肩に背負っている彼は(神の子であると同時に、堕ちた天使であった)今や高貴な事柄(神や天使に関する)のためにではなく、糞のため裁かれることになったのであろうか? すなわち、最高のドラマから最低のドラマまではこんなに目がくらむほど近いのであろうか?
目がくらむほど近いだって? 近さはめまいを引きおこせるのであろうか?
できる。もし北極が南極に触れる程度に近づいたなら、地球は姿を消し、人間は虚空の中にいることになり、虚空は人間の頭をぐるぐる回して、落下へと誘うのである。
もし、拒絶と特権が同じもので、高貴と低級さの間に差異がなく、神の子が糞のために裁かれることもありうるのであれば、人間の存在はその大きさを失い、耐えがたく軽いものとなる。スターリンの息子が電流の流れている有刺鉄線に向かって駆けていき、自分の身体を秤の皿に投げ出すようにすると、秤の皿は悲しげに、大きさを失った世界の際限のない軽さに持ち上げられて、天に向かって突き出すのである。
スターリンの息子は命を糞のために捧げた。しかし、糞のための死は無意味な死ではない。自分たちの帝国の国土が広がるように命を捧げたドイツ人たちや、自分の祖国の権力がさらに西へ達するようにと死んでいったロシア人たちは、そう、ばかげたことのために死んだので、その人たちの死には意味も一般的有効性もない。スターリンの息子の死はそれに反して、戦争の一般的なばかばかしさの中でただ一つの形而上的死として際立ったものとなっている。
上記の部分を反芻して思い出したのは三島由紀夫の書いた以下の一節である。
『仮面の告白』p11
手をひいてくれていたのは、母か看護婦か女中かそれとも叔母か、それはわからない。季節も分明でない。午後の日ざしがどんよりとその坂をめぐる家々に射していた。私はそのだれか知らぬ女の人に手を引かれ、坂を家の方へのぼって来た。むこうから下りて来る者があるので、女は私の手を強く引いて道をよけ、立止まった。
坂を下りて来たのは一人の若者だった。肥桶を前後に荷い、汚れた手拭で鉢巻をし、血色のよい美しい頬と輝やく目をもち、足で重みを踏みわけながら坂を下りて来た。それは汚穢屋――糞尿汲取人――であった。彼は地下足袋を穿き、紺の股引を穿いていた。五歳の私は異常な注視でこの姿を見た。まだその意味とては定かではないが、或る力の最初の啓示、或る暗いふしぎな呼び声が私に呼びかけたのであった。それが汚穢屋の姿に最初に顕現したことは寓喩的(アレゴリカル) である。何故なら糞尿は大地の象徴であるから。私に呼びかけたものは根の母の悪意ある愛であったに相違ないから。
私はこの世にひりつくような或る種の欲望があるのを予感した。汚れた若者の姿を見上げながら、『私が彼になりたい』という欲求、『私が彼でありたい』という欲求が私をしめつけた。その欲求には二つの重点があったことが、あきらかに思い出される。一つの重点は彼の紺の股引であり、一つの重点は彼の職業であった。紺の股引は彼の下半身を明瞭に輪郭づけていた。それはしなやかに動き、私に向って歩いてくるように思われた。いわん方ない傾倒が、その股引に対して私に起った。何故だか私にはわからなかった。
彼の職業――。このとき、物心つくと同時に他の子供たちが陸軍大臣になりたいと思うのと同じ機構で、「汚穢屋になりたい」という憧れが私に泛んだのであった。憧れの原因は紺の股引にあったとも謂われようが、そればかりでは決してなかった。この主題は、それ自身私の中で強められ発展し特異な展開を見せた。
というのは、彼の職業に対して、私は何か鋭い悲哀、身を撚るような悲哀への憧れのようなものを感じたのである。きわめて感覚的な意味での「悲劇的なもの」を、私は彼の職業から感じた。彼の職業から、或る「身を挺している」と謂った感じ、或る投げやりな感じ、或る危険に対する親近の感じ、虚無と活力とのめざましい混合と謂った感じ、そういうものが溢れ出て五歳の私に迫り私をとりこにした。汚穢屋という職業を私は誤解していたのかもしれぬ。何か別の職業を人から聞いていて、彼の服装でそれと誤認し、彼の職業にむりやりはめ込んでいたのかもしれぬ。そうでなければ説明がつかない。
そしてバフチンのことも思った。
『フランソワ・ラブレーの作品と中世・ルネッサンスの民衆文化』p30
肉体のグロテスクなイメージの根本的傾向の一つは、二つの肉体が一つである状態を示すことにある。一方は生みながら、死につつあるものであり、もう一方は孕まれたもの、生み出されるものである。それは常に孕み、生み出す肉体であるか、あるいは肥沃な受胎、受精の可能な肉体であって、男根や生殖器が強調されている。一つの肉体からは何らかの形で、何らかの意味合いで、新たな第二の肉体がいつでも突出して来るのである。
更にこの肉体の年令は、近代の規範(カノン)と異なり、主として生誕とか死にきわめて近い形で現れる。それは幼年と老年であって、子宮と墓、出生させ、またのみこむ自然の懐と近いところにあることが強調されている。しかしその傾向の行き着くところ(いわば限界線においては)これら二つの肉体は一つに統合されるのである。個性的たるものは作り変えられている段階において現われ、死につつあり、出来上がった形ではないものとして示されている。この肉体は同時に墓と揺籃の両方の敷居の上に立っている。すでに一つの肉体ではないが、まだ二つの肉体にもなっていない。その中には常に二つの脈搏が打っている。その一つは止まりつつある母の脈搏である。
さらに、この(死につつある――生みつつある――生まれつつある)未完成の開かれた肉体は、世界と明確な境界線で区切られてはいない。この肉体は世界と混り合い、動物や物自体とも混り合っている。これは宇宙的であり世界の全要素(自然の諸力)を体現する物質的・肉的な全世界を提示する。その傾向として、肉体は物質的・肉的世界のすべてを提示し、自ら体現するのであるが、それは絶対的な下層、のみこみ生み出す原理、肉の墓場、肉の懐、種がまかれ、新しい芽が成熟している畑としての世界なのである。
軽さと重さ、生と死、神と糞、自己と他者、これらがグロテスクに混ざり合う文学は、存在の豊饒な無意味さ、悲劇性、めまいを感じさせる。しかし有意味と無意味、喜劇と悲劇、安息とめまいもまた、存在という肥桶できつい臭いを発しながら境界をなくし混ざり合っている。
文学というのはまさにそのカーニバルであり、そのカーニバルに参加していない者の独白である。