見出し画像

『2666』について少し(フランシス・ベイコンとデヴィット・リンチとロベルト・ボラーニョ)


絵はフランシス・ベイコン、んで映像はデヴィッド・リンチ……という典型的なシュールごのみだったが、文学の世界でそういう作家を探していたのにあまり見つからずにいた。とくに、長編を書く作家には少ない気がしていた。ある意味でジェイムズ・ジョイスなどはそうだったが……
ボラーニョの『2666』をホラーテイストに変わっていく一部の途中くらいまで読んで「よし!イエス!これだ!」とエウレカな気分になった。ご挨拶にもベイコンもリンチも『2666』には出てくる。まあそれ以外にもいろいろな名前が出てくるんだけど……ムージルなんかも出てくる笑
文学でベイコンとかリンチのような仕事が出来る作家が存在するとは思わなんだ。恐怖・欲望・邪悪・夢……幻想に走らずに現実の裏側(あるいは超がつく現実)を描くとんでもない表現者たち。
で、あとは音楽でそういう系譜?の存在はなんだろうと少し考えてみたが、音楽というもの自体がベイコンやリンチやボラーニョの仕事を先取りしてやってるというか、恐怖・欲望・夢……そういうものを表すのに適してるというか、彼らのやってることを音楽でやってる人たちはものすごく多いんじゃないか?と思うた。リンチとか、音楽へのこだわりヤバいし。
というか上記の表現者に共通してるのは、「俗っぽい要素」を恐れないというか、むっちゃアートなんだけど、表現のために色気(エロスというわけでもない、吸着力)を付随させることを厭わないことだな、と思う。
ボラーニョは殺人事件に興味があり、作家よりも探偵になりたかったらしい。ベイコンやリンチもそういう暴力や性に対して冷徹な興味がある気がする。それはあらゆる意味で俗っぽい。ただ、普通の人はそういうものに向き合うとき、アツくなってしまうだろう。ベイコンなんかはいろいろ遊んだそうだが、たぶんその中には快楽以外の執着もあったんじゃあないかネ。俗はすなわち性ならぬ聖に転ずる……とはよくいわれることだが、彼らの作品に聖を感じる人もいるかもしれない。私はどっちかというとフランシス・ベイコンの絵に聖なるものを感じるのはかなり極まっちゃってる感じがするけども。むしろその逆のものに突入し続けてどこっかで裏返っちゃってそう見えるのかもわからない。まあでもわからないでもない……
ボラーニョも『2666』までは事件を解決する理性的な存在を信じていたそうだから、あの狂気は独特のものかもしれない。読んだ人ならわかると思いますが、最後にあの五部が置かれないと狂った四部が、というより作品自体が成立しないというか、文学というのはやはり一種の意味の構造がなければ実現しないのかもしれない。それは破綻・破壊以前にあるのだろう。つまり破綻させるためには一旦成立させなければならないが、ハナから成立していなければ破壊も不可能。破綻させ、破壊するのは読者自身なのだ!!何を破壊するって?そりゃあ……
『2666』が、アルチンボルディという人物を無理やり創造して無理やり現実の模倣に入れ込んだ作品でないのは確かだ。おそらく徹底的なリサーチによるディティールと、練られた場面配置、どこかよそよそしい文体によって描かれた現実のネガに、その真空地点、五部のあの「穴」、埋められたもの以上におぞましいものが隠された穴、救いようのない歴史と現実の数々の欠落を埋めるために召喚された存在であるのだ、アルチンボルディは。なにより、彼は英雄でもなんでもなく、作家なのである!むしろ英雄を生み出すはずのもの、あのシーシュポス、ユリシーズの父。だから『2666』の世界は、閉じた完全なコスモスではなく、生み出す裂け目としてのカオスなのである。

いいなと思ったら応援しよう!