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黒くて眩しい

 ある日、帰り道を歩いていると、建物の角から光が覗いた。黒い空を背景にした光は火星か木星かと思ったが、それはもっと明るく、大きかった。スカイツリーの頂を飾る光だった。東京の象徴を担う塔の骨格は紫色にライトアップされており、その上に軽率に光は載せられていた。今までも幾度となく視界に入っていたはずの光。それに意識下で触れたその日、自分は東京にいるのだと思った。
 と同時に、自分は今まで東京にいなかったのかという疑問が湧き起こり、ジェットコースターの急下降のときのような、腰がふわっと浮く感覚を覚えた。

 自分は今まで東京にいなかったのだろうか。
 約一年前、就職を機に東京に住み始め、住居や職場、その往復にも慣れてきた。行きつけの店や知り合いができ、そこでの活動も始め、ここでの生活が板についてきたと言ってもいい。
 今回の引越しが初めての東京の体験というわけではない。小学校の修学旅行で初めて東京に行った。中学卒業時に学友と行ったディズニーランドの寄り道、高校でのオープンキャンパス、大学では展覧会や古本屋目当てに数えきれないほど通った。
 勿論、それでまるっきり東京に慣れてしまったということはない。東京に居を移してから、東京にいた友達に各地を連れ回され、いろんな人に触れ、体験をし、間違いなく今年度、私の価値観、活動範囲、経験は大きく変化した。知らなかったこと、体験してこなかったこと、未知だった価値観に触れることができたのは、ひとえに東京に出てきたからではなく、頻繁に遊ぶようになった友達による影響が大きいが、私は掘る・・感覚を身につけた。すると却って東京というものが離散し、一つの像に結びつかなくなった。 
 東京と言えど、様々な特色のある場所が各地に散りばめられており、ひとこと東京と括ってしまうにはあまりに多様だ。しかし、漠然とした東京・・という言葉は、それ自体が記号化している。純粋なイメージであり、象徴であり、神話である。東京という、様々なイメージが蔓延り、それがなす漠然とした抽象画。部分が全体を成し、全体は部分に還元される。雑多な要素で積み上げられた東京は、モザイクアートのように遠くから見ればあるかたちを浮かべる。

 ふと、頬を冷たい雨が叩いた。上を向くと疎らな雲があるだけだった。昨夜見た予報に雨マークはなく、いつもバッグに入れていた折り畳み傘も今日に限って置いてきてしまっていた。周りを見渡すと、人々は既に傘を差していた。雨は次第に強くなった。雨宿りできる庇も見当たらず、かと言って走る気にもならなかった。
 暗い路地を抜けると、街灯やオフィスビルのライティング、閉店したばかりの居酒屋で街は明るくなった。気がつくとシャツの袖がぴったりと腕に張りついていた。スラックスが重みを主張していた。着ていた衣服が本来よりも暗く、艶を帯びていた。街は雨に冷え込み、身震いをした。感覚は手からなくなり始めた。

 自分は今まで東京にいなかったのだろうか。
 この疑問は東京・・が場所としてというよりは神話としてのそれに近いような気がする。
 東京に馴染んできた、慣れたとは違うが、今まで住んでいなかったのが不思議に感じる。愛着が湧いたのとも違う、第二の故郷のように感じるのとも違う、言うなれば、それはすでにそこに舞台として存在しており、その上に立っていることに気が付かなかったかのようである。見慣れた映画のロケ地が、たまたま休日に寄った喫茶店だったかのように、既に十分に知っている筈の場所が、改めてそこに立ってみると親しみを覚えるようで、それでいて突き放されるような感覚…。
 いま、私は神話の上に立っている。ただその神話は東京に来たからではなく、東京に居ずとも存在しているものであった。
 スカイツリーに載った軽い光は東京を多重化させてしまった。踏んでいる東京は瓦解し、イメージと溶け合って混ざり、抽象的なものとなった。

 東京は雨で万遍なく濡れていた。雨音と、旋律のないホルンのような音が東京を埋め尽くしている。風が始まり、東京は波打つ。光が反射し、上から下から視界に差し込む。雨を纏った東京は不気味な艶かしさを帯び、現実の東京、観念の東京をまとめて反射の上に載せてしまった。
 雨にすっかり濡れた私も鋭い光の奔流に呑み込まれ、その一部になった。雨は地上を丸々呑み込み、同じ質感を与えた。雑多に散らばる色彩は一つのトーンにまとめ上げられた。
 あらゆる境界は取り払われ、新しい暗い夜と化した。彼岸と此岸を分つ川は氾濫し、すべては映し出される世界との境界面に還元された。

 私は東京を失った。身体を失った。それは逃れられない恐怖のようであり、同時に積年の悲願のようでもあった。それなのに明日にはすべてが元通りになっているという確信が拭えない。この一瞬は魂に確実な痕をつけ、気付いたときには浅い眠りに揺蕩った夢のように、起きてしまえば跡形もなく忘れ去ってしまうのだろう。

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