【エッセイ】人はなぜ生きるのか?
「人はなぜ生きるのか?」
という問いに答えられる人はどれほどいるのだろうか。
「大会で優勝するために生きている」、「家族を支えるために生きている」など、目の前の目標や課題を意識して答える人もいるだろう。
その答えはあながち間違いではないが、この人類史上最大の難問は前提として、哲学的で考えても仕方ないような、真夜中に自分の将来の夢を決めようとするような、無謀で難儀な問いである。
ここで一旦話は変わるが、人類の歴史とは「子孫繁栄」の歴史である。
400万年前に誕生したアウストラロピテクスなどの猿人から、ダーウィンの進化論によって、現在80億人存在する我々の姿に変貌を遂げた(ダーウィンの進化論は現在否定されているが、ここでは取り上げない)。
また私たちは男性と女性という性別に区分でき、男性の精子と女性の卵子が受精することで小さな命を宿らせる。
つまり、人間は常として「子孫繁栄」を目的として生きてきた歴史を持ち、「子孫繁栄」が人間としての最大の役割とも言える。
このように視野を極限まで大きくして考えると、少々生々しく、無機質的であまり実感のないものになってしまう。
だからこそ、人は身近でより現実味のあることに「自分の生きる意味」を見出そうとするのである。
それは至極真っ当な考え方であると思うし、正直「子孫繁栄が私の生きる意味だ」と答える人の数はほぼゼロに近いだろう。
では「人はなぜ生きるのか」という問いの答えがなんでもいいのかと言ったら、それも違う。
まずここでは求められる答えの種類が違う。
数学の問題で導かれる答えが「絶対解」だとすれば、ここで求められる答えは「納得解」である。
「納得解」とは、読んで字のごとく納得できる回答のことであり、人それぞれ違うものである。
「人はなぜ生きるのか」という問いはまさにこの「納得解」を希求しているのであり、言うなれば、この納得解を導くために私たちは生きていると言っていいだろう。
今はただ学生で何もせずぐうたら過ごし、結婚もしてないのに会社で社畜のように働き、そのような無駄に思える日常を送っていても、その全てが人生なのであり、その一つ一つの要素が人生に意味を与えている。つまり私たちは無意識のうちに人生の意味を見出そうとしているのである。
そう考えると私も、自分の心に空間ができ、人生といものを肯定的に捉えられるような気がした。