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目標

気が散ってばかりいる。

やりたいこととやるべきことが脳内に溢れかえって、何を見たらいいのか、どう手をつけたらいいのか、わからない。

かつては考えなかったことの一つに、自分の70代の時をイメージする、ということがある。これもあまり深くは考えないけれど、ちらちらと心の内をよぎる。

数年前日課にしていたランニングを、昨年あたりから再開した。
ランニングといっても、自宅近くの大学の周囲を一周か二周するだけの、実に生易しいものだ。それでも走れば楽しいし、自力で前に進めばゴールに着くという明快さが、頼りない私をいつも勇気づけてくれる。酷暑の今夏はサボりがちだけれど、熱中症対策をして時々走る。
普段の生活ではよく見えないものが、走っている時は文字通り眼前にある。
それを[目標]という。

走る、が日課ではなくなったのは、親元で過ごす時間が増えた頃だ。生活が変わり、走るに相応しい時間や場所が見出せないのを言い訳に、いつの間にか遠ざかっていた。

走っていない時期には、なんとなく、毎日こんなによく歩いているからいいだろう、と思っていた。別に体は動くし。駅でも階段使っているし、問題ないでしょう、と。

確かにそうなのだが、ある時ある人の言葉にハッとした。
「よく歩いてます、は70歳になってからでもできるでしょう」
そうだった。

92歳の知人は、この夏も毎夕、暑さがおさまるのを待って5000歩ほど歩くと言っていた。
歩く、は70歳どころかオーバーナインティでもできる。もしかしたらもっと上でも。


今だから出来ることをしなくてはいけない。


生来の運動音痴で、今も鈍くさいままだ。卓球やってます、とか学生の頃はずっとテニス部で、とかならもっと可能性は拡がるのだろうけれど、悲しいかなその手のスポーツはハードルが高い。走る、しかないなあ。

せめて、走る、をもっと体のうちに入れたい。自分のものにしたい。

そうしたら、70代の自分は、歩く、以上のことが出来る体を維持しているはずだ。
否、今歩いているだけでは、オーバーセブンティに希望はない。体も脳も、衰える。やれること、やらねばならぬこと。あれもこれも。
気は千々に乱れる。


でもそれは、目標、とは違うのだ。それが問題だ。走れるおばあちゃんを目指して生きているんじゃないもの。
手段が目的にすり替わり、今日も心の内がただ騒がしい。
いつになったら、定まった目標に一歩一歩、進めるのだろう。

明日は少し気温が下がる予報だ。また走る。




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