増山かおり

かわいい&仏教を学んでいるライターです。著書『東京のちいさなミュージアム案内-…

増山かおり

かわいい&仏教を学んでいるライターです。著書『東京のちいさなミュージアム案内-美術館・博物館・文学館150-』(エクスナレッジ)など。かわいいとはなにかについて毎日考えています。Twitter @ishikaki28

マガジン

  • マイ仏教をさがして

    いつからかははっきりとはわからないが、仏教の教えを1ミリずつ取り入れて、人生がだんだん納得のいくものになってきている感があり、気づけばこれはもうほとんど仏教徒なのでは、という状態になってきた。 とはいえ、まだどの宗派の教えが自分に一番しっくりくるものなのか全くわかっていないし、そもそも仏教徒と名乗っていいものなのかもわからない。 そんな状況の中、マイ仏教を探し求めてお寺に行ったり家で修行したりする1984年生まれの者による記録です。

  • 「かわいい」の性質

    「かわいい」とは何かをずっと考え続けている者による、世界一かわいいマガジンです。

  • 東京のちいさな美術館・博物館・文学館

    『東京のちいさな美術館・博物館・文学館』という本の著者です。同書の続編のような気分で、首都圏のミュージアムめぐりの思い出を記録していきます。

  • スタローンの映画全部観る委員会

    シルベスター・スタローンに人間の生き様を学び覚醒した者が、のんびりとスタローン作品を全作鑑賞し感想を述べるべく立ち上がりました(30代・女)。

  • なぜなになんだろう

    日々抱いた疑問をここに貯めていきます

最近の記事

お護摩の最中に願いが変わることについて

お護摩に行ったとき、複数のお願い事をすることがよくある。一つに絞ろうと思うのだがなかなか絞り切れず、かといって世界平和とか家内安全をオールマイティな願い事として用いるのはずるいかな?という気がして、なんとか1〜3つくらいのお願い事を選ぶようにしている。 毎回不思議に思うのが、お護摩の最中に、その願いに変化が起きることだ。 護摩木(ごまぎ)という小さなお札のようなものに自分で願い事と名前を書くのだが、書いた願い事とは違う願い事がお護摩の最中に湧いてきたり、願い事の奥にある本当

    • 仏さまに報告をした(初)

      だらしない感じで一日を過ごしてしまったとき、わーなんてダメなんだ、と心の中でつぶやき続けてしまうのが常なのだが、今日はなぜかなんとなく仏さまにご報告したくなり、「今日はなんもできませんでした…」と手を合わせてみた。 大したことではないかもしれないが、これは今までになかったことなので記録しておきたい。

      • 最近、人の守り本尊さまを拝んでいる

        天台宗のお寺にお参りしたとき、熱心にお参りされている方がいらしたのでお話していたところ、その方が「ご本尊が私の守り本尊さまだから」とおっしゃっていた。 そこで、そういえば守り本尊さまというものがあったんだ、と思い出した。詳しいいわれは存じていないのだが、生まれた年の干支ごとに、自分を守ってくださる仏さまがいらっしゃるのだそう。 私は子年で、子年の守り本尊さまは千手観音さま、または観音さまらしい。どちらかのお寺でお守りキーホルダーを求めたときに初めて知ったような記憶がある。そ

        • 特別展「はにわ」内覧会レポート〜生まれ変わった「踊る人々」を愛でよう

          2024年10月16日(水)より、東京国立博物館 平成館にて挂甲の武人 国宝指定50周年記念 特別展「はにわ」が開催されます。先行して10月15日(火)に行われた内覧会に参加したはにわ初心者ライターが、ほのぼのとした姿で愛される「埴輪 踊る人々」を軸に、本展の魅力をご紹介します。 解体修理を終えた「踊る人々」がお出迎え展示室に入るとまず迎えてくれるのが、おなじみの“埴輪 踊る人々”(以下、「踊る人々」)。今にも「ようこそ〜」と喋り出しそうな、ゆるやかで愛らしい姿です。 昭和

        お護摩の最中に願いが変わることについて

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        • マイ仏教をさがして
          22本
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          2本
        • 東京のちいさな美術館・博物館・文学館
          0本
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        • たのしい棒
          0本

        記事

          仏教の好きなところ

          仏教を好きになってよかったなあと思うのは、自分が救われているということは、自分と縁のあるあの人も救われるということ、そして、その人と縁のあったあの人も救われたんだ、と確信できるようになったこと。仏教を好きになってからというもの、その輪がゆっくり少しずつ広がり続けているような感じがしている。 その「救われた」は、完了した、ゴールに行き着いた、というよりは、現在進行形に近いような感じがしている。「救われつつある」「救われる方向に向かっている」「このままやっていけば大丈夫だ」とい

          仏教の好きなところ

          日常的にお経を読んで起きた変化

          自宅で朝のおつとめをするようになって半年ほどが経った。 天台宗のお寺のお護摩に通ううち、お護摩のときには読まないページがあることが気になり、家で声に出して読んでみた。そうするうちに、なんとなく全ページ読みたくなり、頭から最後まで読んでみた。そうしたら、なんとなくいい感じがした。朝やる気が出ないときなどにそうやって全文読むようになり、次第にその頻度が高まっていった。そして今は、平日の朝に息子を保育園に送って帰ってきたあと、家に一人でいる時間に全文を読むようになっている。 お経

          日常的にお経を読んで起きた変化

          「自分が父親化するしかなかった」という段階が完全に終わった

          この夏ふと、 「誰も頼れないから、自分が父親化するしかなかった」 という段階が完全に終わったと感じた。 尊敬する人物がほぼ全員男性であること、特にスタローンを強く求めたことは、明らかに父親的なものを求める行為だったと思う。その証拠に、スタローンをかっこいいと思う気持ちに、性的なものがほとんど含まれていない。 お寺のお護摩(お寺でお坊さんが火を焚くかっこいい儀式)に惹かれたのも同じく父性的な要素を求めてのことだったと思うし、なにかと行動が極端になり理想が壮大になりがちなのも、

          「自分が父親化するしかなかった」という段階が完全に終わった

          仏さまの後ろ姿

          家に、夫とタイ旅行をしたときに手に入れた小さな観音さまの像がある。今、その後ろ姿がふと目に入り、「何年も経つのに、こんなにお背中をまじまじと眺めたのって初めてだな」と気づいた。そうしたら自然と、お経に出てくる 慈眼視衆生(じげんじしゅじょう) というフレーズが思い出された。 お寺では多くの場合、仏像は仏さまのお顔とお参りした人の顔が向き合うように安置されている。そのため「後ろはどうなっているのだろう?」という思いも湧いてくる。美術館などで背面を拝するチャンスがあると、まじま

          仏さまの後ろ姿

          寝落ち寸前、ついに阿弥陀さまがご来迎

          なんだか最近とにかくダメだった。ここ2週間ほど心身共に乱れ切っていて、ここ数年あまりなかった自己否定が頻繁に出てきてしまうようになっていた。仕事も遅いし料理も全然できていないし、貯金も足りないしいつも部屋が散らかっている。こんな親で息子がかわいそうだ。 またダメになるのかもしれない。このまま一生ダメなのかもしれない。夏のせいとかじゃない、自分がとにかくダメなんだ。猛暑の中で必死に働いてくれている夫よすまない。やることを大量に残したまま、床に就いた。 ところが、息子が寝た気配

          寝落ち寸前、ついに阿弥陀さまがご来迎

          むすこが初めて発した仏教用語

          それは「ナンマイダー」だった。お風呂でばいきんまんの指人形で遊んでいるとき、やっつけられてしまったばいきんまんを弔っていたのだ。突然ナンマイダーと言いながら手を合わせ始めたので、かなりびっくりした。 といってもそれはお寺や母の念仏で覚えたわけではなく、大山のぶ代期のドラえもんのDVDで、スネ夫がお葬式ごっこをしているシーンを見て覚えたのだという。 私たち(昭和の終わり生まれ)が子供の頃は、ドリフかなにかのバラエティ番組やドラマでお葬式のシーンがよく出てきたので、それが仏教の

          むすこが初めて発した仏教用語

          火を怖いと思った

          先日、「火を御している人が傍にいるだけで、人はものすごく安心感を得るのではないか?」 と思った出来事があった。 それは、寛永寺さまにちゃんとお参りをしたことがなかったのでお参りしてみたときのことだった。 お線香に火をつける炉のようなものがあり、火はその炉の低いところで燃えていて、お線香を持った手をその炉の中に入れるような形で火をつけるような仕組みに見えた。私のやり方が間違っていたのかもしれないが、その火にお線香の束を握った手を近づけたとき 怖い! という気持ちがワッと湧

          火を怖いと思った

          お護摩のときに感じていること(お護摩に何度か行かれた方向け)

          私は1年半ほどお護摩に通っているのだが、それは毎回必ず心身になにかが起こるからである。 その変化には、大きく分けると5つのステップがあると感じている。 1.行く前 2.お護摩の前半 3.お護摩の後半 4.お護摩の最後 5.終わったあと 1.行く前 行く!と決めた日や、いよいよ明日だぞ〜!とワクワクしているとき、そして当日お寺に向かうまでの間。行くと決めただけで自然と日頃の行いを振り返り反省したり、自分が何を不満に思い何を望んでいるのかがうっすら洗い出されたりする感じがし

          お護摩のときに感じていること(お護摩に何度か行かれた方向け)

          宗教行為で周りの人を不安にさせないようにしたい

          ここ数年、仏教関連のツイッターアカウントをたくさんフォローして初めて、 「日本にはこんなにたくさん仏教が好きな人がいたのか!」と思い驚いた。そして嬉しくなった。 約40年生きてきたが、仏教に関心を持っているという人はいても、仏教をやっているという人(お坊さんではなく在家の人)にはお寺の外では今まで一度も出会わなかったからだ。 とはいえ、他の人のツイートやAmazonレビューを見ていると、こんなに勉強して本を読み込んでいる人がたくさんいるのに、仏教の行を日常的に行っている人が

          宗教行為で周りの人を不安にさせないようにしたい

          不動明王(さま)の(御)真言は水の前で唱えてもいいのか

          (御)真言について全然よくわかっていないのだが、自分がいつもお参りしている天台宗の普賢寺さまのお護摩で何度も唱えるので、自分なりに味わうというか、感じるところがいろいろとある。 なにか辛いことがあったとき、心が乱れたとき、優しくなりたいときなどに、たまにお寺以外の場所でも唱えることがある。 あるとき、家で皿洗いをしながらふとある人の幸せを祈りたくなり、お不動さま(不動明王)の真言を唱えた。ちなみに、カタカナ表記すると数十文字、一回唱えるのに約10秒くらいかかる。 最初は真言

          不動明王(さま)の(御)真言は水の前で唱えてもいいのか

          神道のことを知らなすぎる

          子供の頃から毎年初詣に行っているし、神式の結婚式をしたし、夫の実家は神道のおうちなのだが、神道のことが1ミリもわかっていない。 日常の中で神様を意識することはちょこちょこあるし、息子が神社が好きなのでかなり頻繁に近所の神社にお参りにも行くのだが、神様がいったいなんなのかまったくわかっていないため、息子に説明ができない。 「かみさまって、ひと?」 「人みたいな感じだけど、人ではないよ」 「じゃあ、まほう?」 「そうだね、魔法のほうが近いかも…?」 お寺にお参りしてお経を唱え

          神道のことを知らなすぎる

          お坊さんの坐禅を見たことがないと気づいた

          よく考えたら、お坊さんが坐禅されている姿を見たことってほとんどないな! と初めて気づいた。 仏教に関心のある人の場合、坐禅会が最もそれに近いチャンスだけど、お坊さんはたいてい指導者としていらっしゃるので、形として例を示されることはあっても、本当に坐禅をされているお姿を拝見できることはほぼない。私たちが目にするのは自分が坐っている姿の半分と、横目でチラッと見える(おそらく)一般の参加者の横から見た姿だけ、ということが多い。 だからそもそも、お坊さんどころか、生身の人間が坐禅

          お坊さんの坐禅を見たことがないと気づいた