最近、人の守り本尊さまを拝んでいる
天台宗のお寺にお参りしたとき、熱心にお参りされている方がいらしたのでお話していたところ、その方が「ご本尊が私の守り本尊さまだから」とおっしゃっていた。
そこで、そういえば守り本尊さまというものがあったんだ、と思い出した。詳しいいわれは存じていないのだが、生まれた年の干支ごとに、自分を守ってくださる仏さまがいらっしゃるのだそう。
私は子年で、子年の守り本尊さまは千手観音さま、または観音さまらしい。どちらかのお寺でお守りキーホルダーを求めたときに初めて知ったような記憶がある。そのときは「ほうそうなのか〜」「てことは同級生はほとんどみんな守り本尊さまが同じなのか」と思ったきり、ほとんど意識にのぼることはなかった。
ところが、さきほどのお参りの方のお話をお聞きして、急に守り本尊さまのことが気になってきた。そのときお参りしていたお寺のご本尊について調べてみたら、弟の守り本尊さまだった。なんだか嬉しくなりさらに調べてみたところ、夫と、私のもう一人の弟と、私の父の守り本尊さまは、いつも通っているお寺とご縁の深い仏さまだった。
そして、母の守り本尊さまは、阿弥陀さまだった。
私はおもに天台宗と曹洞宗の教えを学びたいと思っており、浄土系の宗派のお寺にお参りすることに、申し訳ないような気持ちを抱いている。天台宗のおつとめのお経本にも南無阿弥陀仏と書かれているのでおとなえしているのだが、いつもその部分が自分にとってはしっくりこなくて、敬意を持ちながらもポーズとしておとなえしている感がぬぐえなかった。もっといえば、嘘をついているような気持ちも抱いていた。
母の守り本尊さまであるということを知ってから一ヶ月くらい経った頃だろうか、家にあるブッダマシーン(おそらく台湾製の、仏さまの絵が描かれていて光とともにお経が流れるマシン)に向かって天台宗の朝のおつとめをしていたときに、ふと母の顔が思い浮かんだ。そして、おそらく初めて、母が救われてほしいという思いでお念仏をした。そうしたら、今まで全然しっくりこなかったお念仏が、内側に入ってくるというか、自分が発している声が逆流してくる感じというか、とにかくなにかがじーんとしみてきた。
そのお経本には、以下のように書かれている。
なむあみだぶ(つ)
南無阿彌陀佛
(遍數随意)
この「遍數随意」がよくわからず、広島仏教学院オンライン講座で先生方がおとなえになっているお姿を思い出しながらなんとなく真似をしてとなえていたのだが、この日初めて、自分なりの「随意」でなむあみだぶなむあみだぶととなえることができた。となりのトトロでばあちゃんがメイちゃんの無事を祈っている姿に、少しだけ近づけたような気がした。なむあみだぶつととなえることを、初めて許されたような気がした。自分には一生縁がないのかもしれないな、と思いながらも、なぜ浄土教から離れようとしなかったのかというと、もしかしたら母の守り本尊さまだったからなのかもしれないな、と腑に落ちた。
今までお念仏がしみてこなかったのは、自分のためだったり、世界平和とか漠然としたもののためにとなえていたからだったのかもしれない。母も幸せでありますように、と明確な願いをもってお念仏したとたん、お念仏に血が流れ込んだのを感じた。「この願いよ届けー!」「母さんも大丈夫だよ!」という気持ちが十分に届いたな、と感じたところで、自然ととなえることをやめた。息を吸って、吐くように。となえたあとの静かな余韻を、心ゆくまで味わった。母も大丈夫だろう、きっと。
そこであらためて、自分の好きなお経に思い至った。意味がまったくわからないながらも、不思議と法華経の「観世音菩薩普門品偈」だけは初めて唱えたときからなにかグッとくるものを感じ、今まで何度も助けられてきた。観音さまについて書かれたお経だ。まったく終わりそうにない原稿の締切、確定申告、家族のピンチなど、様々な苦境において、安心も信頼も導きも与えてくださったのがこのお経だった。
やっぱり、守り本尊さまというものはあるんだなと思った出来事だった。