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「中心」を見失わなければいつも幸せ

「超過死亡」なんて言葉をよく耳にするようになりました。

どういう意味?って、調べましたよ。

ここ数年、増えているらしいですね。

何かあったのでしょうか。

私には分かりません。

自分の狭い世界を見つめ直してみると、

確かに(?!)亡くなった同級生の数に驚きます。

本当に残念です。

医学が進歩している日本で、

まだ若い年代なのに亡くなっているのです。

昔と比べて「10歳は若返っているよね」と感じる世の中です。

まずは自分自身の体のことを大切にしようと思います。

こんな私でも、健康であれば、

まだまだお役に立てるチャンスはあるかもしれませんから。

お医者様曰く、

「心と体のバランスを心掛けてください」

だそうです。

健康に生きる「法則」なのでしょうね。

体を科学するお医者様がおっしゃる言葉ですから、

重みがあります。

「体」は何となく分かりますけど、

「心」のバランスはどうしましょうか?

「体」のバランスを心掛ければ「心」も良くなれば良いのですけどねぇ。

そんな単純なことではないのかもしれません。

多くの人が、当然、私もですけど、

毎日毎日「不足」「不満」の思いになることから逃げられないし、

それが積み重なってくると「悩み」という「かたち」に

なっていくのでしょうから。

「体」はとりあえず今はなんとか(?)なっていても、

「心」が疲弊していく危険がいっぱいかもしれませんね。

そんな「心」でいれば、

じきに「体」も病むのは必至ですよねぇ。

どうすれば「心」のバランスを保てるのでしょうか?

と、いうか、

なぜ「心」のバランスを保てないことが多いのかを考えた方が良いのかもしれません。

布教師としての40年の経験則に基づいて結論から書くと、

「心」が「かたくな」だから

でしょう、ね。

「〇」とか「✖」ということではありません。

「かたくな」って、固いイメージですよね。

固いと、「関係性が傷だらけ」になるだろうし、

固いと、「心が折れてしまう」かもしれません。

固いので、「関係性で適応できない」ことが多くなり、

「不足」「不満」となり、果ては「悩む」ことになるのでしょう。

悪いことに、

その人と関わる関係者の方々も

同じように引きずられしまう訳です。

自分も不幸、関わる全ての人たちも不幸。

最悪ですね。

では、

どうあれば良いのでしょう?

私としては、

「どうあったら幸せか」

という「ある」が大切だと思うのですよ。「する」ではなくね。

「ある状態」をイメージして、「する」ことが決まるのですから。

「ある」を間違うと、「する」は当然間違うことになり、

結果として、「不足」が多くなり、

積み重ねの先に「悩み」になっていき、

「心」が病むのかと。

ここで言う「間違い」とは、

「自分も幸せ、関わる全ても幸せ」と、ならないことかな、と。

その大切な「中心」を見失わないようにと、

バランスを心掛けて生きるのなら、

目の前の「関係性」に「今以上に」心が向くようなセンスが磨かれていき、

「関係性」が良好になっていくのは当たり前のことかもしれません。

さらに、その良好な「関係性」がより深まれば、

その向こうの人との「関係性」にも広がっていくでしょうね。

「関係性」は、

夫婦であったり、

家族であったり、

隣近所の方々であったり、

そして職場の関係の方々と広がっていく訳です。

家族で悩んだり、職場で悩んだりするのは、

「中心」を見失うほど「かたくな」だからだと

私の今までの経験則として思うのですよ。

おもしろいもので、

「心」のバランスが取れていくと、

「体」を大切にしていくことで、より「関係性」でお役に立てる

と、思えるようになっていき、

日々、自分の「命」に感謝して、

「体」の管理にも「誠」できるように自然になるようです。

生かされて生きている私たちなので、

寿命は神のみぞ知ることではありますが、

命ある限り、

「中心」を忘れずに、「心」と「体」を働かせていく生き方、

言葉を変えれば、

「世のため人のためにお役に立てますように」という生き方を

歩んでいきたいなと思うのです。

人生は芸術である、楽しかるべきである。              

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