「大造はなぜ銃を下ろしたのだろうか」とただ問うだけでいいのか
「大造はなぜ銃を下ろしたか」と、ただ発問をすることは間違い
椋鳩十の「大造じいさんとガン」の読解において、「大造はなぜ銃を下ろしたのだろうか」と発問をすることは間違いではないということを、前回の「リフレク帳151」で明らかにしました。
「答え」が直接書かれていないことを問うことは、指導上の誤りではないのです。
しかし、「大造はなぜ銃を下ろしたのだろうか」と、ただ発問をすることは間違いだと考えます。
つまり、こういうことです。
「大造はなぜ銃を下ろしたのだろうか」と、ただ発問をするだけでは、子供たちが勝手な想像をするだけで終わってしまう恐れがあるからです。
特に危惧されるのが、次の箇所を根拠にして読んでしまう子供の出てくる可能性のあることです(以下、本文はいずれも「令和2年度版小学校『国語5 銀河』光村図書」より)。
この三つの箇所は、いずれも、大造が銃を下ろした後の叙述です。
大造が銃を下ろす前に見た光景でもなければ、心情でもありません。
しかし、ただ「大造はなぜ銃を下ろしたのだろうか」と発問をするだけですと、これらの箇所を根拠にして考えてしまう子供が少なくないのです。
また、子供に誤った読みを導くだけでなく、発言後の子供たちに対して教師が、「その箇所は、大造が銃を下ろした後の叙述である」と指摘をすることになるので、それでは後出しジャンケンになってしまいます。
「大造はなぜ銃を下ろしたのだろうか」と、ただ発問をするだけでは間違いであるとは、こういうことです。
どのように問うか
そこで、子供の資質・能力を育む問いにするために、以下のように段取りを踏むことを提案します。
子供たちは書かれていないことを想像することで「読書の楽しみ」を感じ取ることができますし、それだけも、資質・能力を育んだと言えなくはないのかもしれませんが、勝手・誤りの「想像読み」にならないように、まず、次のことを子供と確認します。
① 大造が銃を下ろした理由は書いていない
「が、なんと思ったか」としか、書かれておらず、直接的な根拠となる語句や文がないことをまず確認してしまいます。
その上で、次の課題を子供と設定します。
② 「大造はなぜ銃を下ろしたのか、ヒントを探して想像することに挑戦しよう」
そして、「ヒント」見つけを子供とします。
子供たちは、考える「根拠」となるいくつかの<ヒント>を探し出すはずです。
上述のAに着目する子がいたら、「Aは銃を下ろした後の残雪の様子だが、そこを手掛かりに大造が銃を下ろす直前に見た光景を想像しよう」というように考えを進められます。
つまり、
③ 大造が銃を下ろす直前に見た光景を想像する
また、本時までの読みを活かすことにも目を向けさせたいと思います。
子供たちは本時までに、大造の残雪への見方が変化してきたことを読み取ってきているのではないでしょうか。
それを<ヒント>にする想像の仕方もありそうです。
④ これまでの「戦い」で大造が残雪に抱いてきた気持ちの変化
つまり、文脈を踏まえて想像して読ませるわけです。
さらに、上述のBやCが、この後の展開で大造が感じた残雪への思いであることを踏まえた上で、
⑤ この後の残雪への気持ちの変化の始まりや兆しがあったかもしれないと、考えることも<ヒント>になるでしょう。
これは、子供が文脈を「つくる」読みになると言えるでしょう。
以上のヒントを列挙した上で、子供たちに、「大造はなぜ銃を下ろしたのか」を考えさせるのです。
学級によってはこれらの他にも<ヒント>を見つけるかもしれません。
この後の展開は子供の実態に合わせて、個人でこの3つの<ヒント>を用いる、3つの中から選択する、グループで分担するなど、いくつかの方法が考えられるでしょう。
ところで、この投稿の中で、私はずっと問いにおいて「大造じいさん」と用いずに「大造」と書いてきました。
もちろん、子供に対しても「大造じいさん」とは言わないし、言わせません。
理由はおわかりだと思います。
この物語は、「大造じいさんがかつての思い出を話している」という設定ですから、思いでの中の大造さんは、年齢的に「じいさん」ではおかしいのです。
かつては教科書の挿絵も、老人として描かれているという誤りを犯していました。
その意味で、題名が「大造じいさん」になっていることに対して、その意味を考察する余地があるのかもしれません。