内田美由紀
以前、伊勢物語ドットコムにあった伊勢物語の現代語訳と解説を載せています。随時更新します。以前作った頁の復元ですが、以前の背景や絵は使えませんでした。また解説など一部変えています。なお、2025年は業平生誕1200年です。
昔 男がいた。その男は自分の身をいらないものと思ってしまって「京にはいないでおこう、 東国の方に住むのによい国を探しに行こう」と言って行った。前からの友人を1人2人つれていった。道案内もなくて迷って行った。 三河国の八橋というところについた。 そこを八橋というのは、水がクモの足のように分かれて流れているので、橋を八つ渡していたからね、八橋っていうんだって。 その水辺の木かげに下りて座ってお弁当を食べた。その沢にかきつばたがとてもきれいに咲いていた。 それを見て一人が
昔、男がいた。都は住みづらかったのだろうか、 東国のほうへ行って住む所を求めると言って、友とする人一人二人して、行った。 信濃の国、浅間山に煙が立つのをみて、 信濃なる浅間の嶽に立つけぶり をちこち人の見やはとがめぬ (信濃の国にある浅間山に立つ煙 あちこちの人が見咎めないのだろうか、いや見咎めるだろう) 火のないところに煙は立たない・・・、噂についてよく言われる言葉だ。 ここでも比喩としては、浅間山の噴煙ぐらいにさかんに噂が立っているが、みんな見咎めないだろうか
むかし 男がいた。 都に居づらくなって、東国へ行ったが、伊勢の国と尾張の国の間の海辺を行く時に、浪がとても白く立つのを見て いとどしく すぎゆくかたの こひしきに うらやましくも かへるなみかな (さらに一層過ぎてきた方が恋しいのに、うらやましくも 帰る浪であることだ) となあ、詠んだそうだ。 もうずいぶん前のことになるが、秋に研究会で名古屋に行った。 一人で行動するのはいつもなのに、そのとき不思議な時間を過ごした。 翌日に現地踏査をひかえて、夕暮れ、熱田神宮に
昔、男がいた。(京都の)東の五条あたりに、とてもこっそり(女のところへ通って)行った。 (そこは)秘密であるところだったので、門からも入れないで、子供らが踏み開けた築地(土塀)の崩れから通ったのだった。 人がたくさんいるわけではないが、(男が通う)回数が重なったので、家の主人が聞きつけて、その通い路に毎夜、(警備の)人を置いて、守らせたので、(男は)行くが、逢えなくて、帰ったのだった。さて(男が)詠んだことには ひとしれぬわが通ひ路の関守は 宵々ごとにうちも寝なな
昔、東の五条に大后宮がいらっしゃった その西の対に住む人がいた。 その人を、本気ではないが、気持ちの深い人が行き訪ねたが、 (その人は)正月(旧暦一月)十日位の頃によそへ隠れてしまった。 (その人の)いる所は聞いたが、人が行き通う所でもなかったので、よけいにつらいと思いながら、いたのだった。 次の年の正月に、梅の花盛りに、去年を恋しく思って、(西の対に)行って、立って見、座って見、見るけれども去年に似るはずもない。 少し泣いて、荒れ果てた板敷きに、月が傾く(沈
昔、男がいた。思いをかけていた女の所に、ひじき藻というものを贈ると言って 思ひあらば葎(むぐら)のやどにねもしなん ひしきものには袖をしつつも (もし思う気持ちがあれば雑草の生えた家の庭に寝もしよう。ひじきではないが引いて敷く物には袖をしながらでも) 二条の后が、まだ帝にもお仕えなさらないで、普通の人でいらっしゃった時のことである。 万葉集なら「やど」は「屋の外」すなわち「庭」なのだが、平安時代なら、宿は家だろう。 でも、葎の宿とくると訳に困るところ。
昔、男がいた。 奈良の都は離れて、この都(平安京)は、まだ一般の人の家が決まっていないときに、西の京に女がいた。 その女は、世間の人よりは優れていた。その人は、容貌よりも心が優れていたのだった。 一人ではなかったらしい。 それを例の誠実な男が、ちょっと語り合って、帰ってきて、どう思ったのであろうか 時は旧暦三月一日、雨がしょぼしょぼ降るときに贈った歌 おきもせず寝もせで夜を明かしては 春のものとてながめくらしつ (起きもしないで寝もしないで夜を明かして、それで今
昔、男が初冠(元服)して、奈良の都、春日の里に所領がある関係で狩りに出かけた。 その里にとても優美な姉妹が住んでいた。 この男は垣根越しに覗き見てしまった。意外にも(その姉妹が現代風で)昔の都に不似合いな様子でいたので、気持ちが惑ってしまった。 男は着ていた狩衣の裾を切って、歌を書いて贈る。その男は信夫摺りの狩衣をなあ、着ていたということだ。 春日野の若紫の摺衣 しのぶの乱れ限り知られず (春日野の若紫で摺った摺り衣の信夫摺りの乱れ模様はこれ以上ないくらいです …
ご無沙汰しております。ちょっと体調を崩しておりました。 そろそろ復帰したいと思います。
平安時代に、宮中に出仕した女性の呼称は、例えば中宮定子を「ちゅうぐうていし」とか、彰子を「しょうし」とか読むように、音読みにすることが多い。 昔、誰に習ったのか忘れたが、これは宮中では基本的に中国風で音読みだったから、本名とは別で、宮中での読み方として音読みにしているのだ、と聞いた。 清少納言みたいに、「せい・しょうなごん」。それなら紫式部は、藤式部で「とう・しきぶ」。 男性でも、菅三品「かん・さんぼん」=菅原文時の通称。これはまあ和漢朗詠集だから? 藤原定家
昔、サイト伊勢物語(またの名を「伊勢物語の世界へようこそ」、またの名を「伊勢物語ドットコム: 今はない)の掲示板に、質問があった。 「業平は実際に東下りをしたのか?」 つまり事実もとい史実なのか、尋ねてきたのだった。質問者が誰かはわからない。 返事は10年ぐらい(?)経ってからサイトのページに書いた。かなり調べなければならなかったから。 調査の結果、業平は(以下有料にします)
新しい学校二つに行くことになり、新たな門出を迎え、ワクワクドキドキしています。 春休み中は、母の用事をしたり、新しい学校の手続きをしたりで落ち着かない日々でしたが、家ではゆっくり過ごしました。 『葬送のフリーレン』のアニメを観たり、主題歌の『晴る』を聞いたり、新刊の『薬屋のひとりごと15』を読んだり、遊んでばかりだったので、そろそろ本腰を入れて本業に戻ろうかと思っています。 そういえば、『薬屋のひとりごと』の二次創作の盛んなのを見るといつも、平安物語文学もあれほどでな
今年の目標は、『伊勢物語考Ⅲ』を書くことです。 『伊勢物語考ー成立と歴史的背景』と『伊勢物語考Ⅱー東国と歴史的背景』(新典社)をこれまで上梓しました。 専門書なのに索引は付けられなかったですし、 専門書だから本文紹介もなく、 昨年夏まで伊勢物語ドットコムがあったのですが、 ドットコムにした当初からサーバをアタックされたり、 ドットコムの管理などの問題があったりで、 セキュリティを上げるのが難しく、 やはり紙の本で残そうと考えました。 サイトは、管理者が生きている間しか続けられ
昨日、京都先端大学での中古文学会関西例会のピーターマクミラン氏の講演会「心ときめく古典の世界」に行ってきました。百人一首の英語版世界大会やJICA文化交流など精力的で驚きました。クラウドファンディングもされています。株式会社月の舟https://www.themoonisaboat.com/
このID専用のパソコンが開かなくなって、ちょっと手間取っていました。 また再開します。
お供である人が、酒を従者に持たせて、野を通ってやってきた。 「この酒を飲もう」と言って良いところを探し求めて行くと、天野川というところに着いた。 皇子に、右馬の頭(うまのかみ)がお酒をさし上げる。 皇子のおっしゃるには、「『交野を狩して、天の河のほとりに着いた』を題として、歌を詠んで、盃をさせ(杯に酒を注げ)」とおっしゃったので、例の右馬の頭が、詠んで差し上げた。 かりくらし たなばたつめにやどからむ あまの河原に我は来にけり (一日狩をして過ごして七夕姫〔織女〕に宿を