伊勢物語 第八段 信濃なる浅間
昔、男がいた。都は住みづらかったのだろうか、
東国のほうへ行って住む所を求めると言って、友とする人一人二人して、行った。
信濃の国、浅間山に煙が立つのをみて、
信濃なる浅間の嶽に立つけぶり をちこち人の見やはとがめぬ
(信濃の国にある浅間山に立つ煙 あちこちの人が見咎めないのだろうか、いや見咎めるだろう)
火のないところに煙は立たない・・・、噂についてよく言われる言葉だ。
ここでも比喩としては、浅間山の噴煙ぐらいにさかんに噂が立っているが、みんな見咎めないだろうか、見咎めるんだろうな、ぐらいの意味だろう。
「信濃なる・・・・・・」の歌は、新古今集にも業平歌として載る。伊勢物語に載っていたから、新古今集に採られたのだろうと言われている。
現代、伊勢物語を段序どおり読んでいくと、東下りのルートについて、この段で、必ず疑義が出る。
普通知られている東海道では、浅間方面に行かない。浅間は東山道だ。
つまり、伊勢物語(初冠本)では、この第八段で浅間山の煙をみているのに、また東海道に戻って、第九段で八橋でかきづばたをみてから富士山をみて、さらに隅田川を渡っておきながら、第十段や第十二・十三段では武蔵野をうろうろしているし、第十四段で陸奥に到って、「栗原のあねはの松・・・・・・」なんて歌に詠んでいる(宮城県栗原市;中世の歌枕)。第十五段は陸奥の信夫山(福島市)。
初冠本を編纂した人はそれぞれの地名がどこかわかっていたのだろうか。
ちなみに、伊勢物語の歌の中の地名は、ある意味マニアックというか、あまり有名でない地名もあり、すべてが平安時代にメジャーな、よく知られた歌枕、とは言いがたい。
伊勢物語で長年なじんでいるから、つい平安時代の歌枕と勘違いしてしまい、たまたま調べたら平安の歌枕の中には見当たらなくて、呆然、なんてこともある。
だから、各段の地名を調べると、”伊勢物語作者は、散々東国を「鄙」と呼んでおきながら、東国のことをよく知っていると感じる。
榛名山が6世紀に二度大噴火していたのは、上野国群馬郡の黒井峯遺跡での馬の放牧とからめて、考古学的にも紹介されている。(『古代を考える 東国と大和王権』原島礼二氏・金井塚良一氏編、平成六年、『古代日本の国家形成』吉田晶氏、2005年)。
またそのあたりに渡来系の人々が移り住んでいたことも。そして、榛名山の二度目の大噴火で厚さ2mもの軽石が堆積して壊滅状態となり、その後草原となって、7世紀後半から人々が戻り、8世紀からは律令国家による牧が作られたという。8世紀当時、武蔵野や浅間はどうだったのだろうか。
伊勢物語の挿絵は伝統的にほぼ型が決まっているが、浅間については、まるで、どこかの峠から浅間山の噴煙をみているような絵で、東山道を想定しているようだ。東山道は、信濃国で千曲川を渡って、入山峠または碓氷峠を通って、上野国へ入る(『古代を考える 古代道路』(木下良氏編、平成8年)88頁第19図)。で、上野国府の近く、古代の群馬駅を通って、利根川を渡り、古代の足利駅に向う(同102頁第23図)。さらに下野国に入って、古代の足利駅から下野国府を経由し、ここから経路がはっきりしないものの、箒川を渡り、鬼怒川を渡る。北関東を東に横切り、下野から陸奥へむかって北上していくことになるのだろう。
なお、武蔵国は宝亀二年(771)に東山道から東海道へ所属替えとなったことが指摘されている(『古代を考える 古代道路』(木下良氏編、平成8年)104頁)。またこの所属替えによって、東山道武蔵路が廃止され、考古学的には8世紀中ごろ東山道武蔵路は廃絶していたものと見られている(同108頁)。
ところが近年の発掘で、東山道武蔵路は廃止後、しばらく使われていたことがわかった。つまり、業平の時代ならば、東海道を下り、東山道武蔵路を北上し、足利付近で東山道に入って、そこから一路、陸奥国に向かったと考えられる。(内田美由紀『伊勢物語考Ⅱー東国と歴史的背景』新典社、2021)
そうすれば、相模から北上して、武蔵国府の横を過ぎ、昔の隅田川を渡って、次第に浅間の噴煙が見えてきた、はずだ。