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『傲慢と善良』感想:現代社会の結婚を難しくするものは何か
辻村深月さんの小説『傲慢と善良』を読みました。
物語の入りとしては、それまでストーカーに追われていた婚約者が結婚直前で急に姿を消してしまうという、ミステリー小説のようなテイストですが、真実がどこへ行ったのかは実のところ物語の主題ではありません。
真実を探すため、架は彼女の故郷に向かい、彼女の両親、彼女が架と出会う前に通っていた結構相談所、そこで出会った結婚相手候補たちから、当時の真実についての話を聞くことで、彼女が本当はどういう人間であったかを知り、そして自分自身の結婚観、人生観についてを改めて考えることになります。
……というところまでが前半パート。この小説は2部構成になっており、後半では、姿を消した彼女がどこで何をしていたのか、そして過去の真実が何を考えていたのか、答え合わせのように明かされていきます。
この小説は既に100万部を超える大ヒットとなっており、もうすぐ映画公開も決まっている有名作品なので、感想としては今さらすぎるのですが、この小説、特に結末にどういうテーマが描かれているのかについて、自分なりに解釈したことを整理してみます。
「傲慢と善良」は何を指しているのか
この小説で描かれているのは一貫して結婚、恋愛、そしてそれにとどまらない人間関係、生きていくことの痛みであり、真実の失踪はそこに向き合うきっかけでしかない。
架と真実それぞれが他者との関係性を通して自身の内面の弱い部分を突き付けられ、見つめ直し、傷つきながらそれを克服していく。
タイトルの『傲慢と善良』が指すものの意味は、物語のそれなりに早い段階で、これ以上ないほど直接的に明かされる。
この一文をこの小説における印象的なフレーズとして引用する人も多い。では、なぜ「傲慢と善良」という2語が現代の結婚をめぐる問題を象徴するワードとして選ばれているのだろうか。
「他者を尊重すること」と結婚の相性の悪さ
現代社会は多様性や人権といった考えが広く普及し、個々人がありのままでいられることや、他人から強く否定されずに生きられることが大切な権利として尊重されている。特に都市部において、他人に干渉しすぎない、他者の生き方を否定しないことはごく当たり前になった。男女問わず、一人で何かをすることのハードルも下がっている。もちろん今でも社会的な問題は山積しているし、都会/地方や男性/女性といった生まれつきの境遇によって感じ方も異なるだろうが、昔と比べてそういった場面が相対的に減ってきているのは間違いないだろう。
一方で、そういった社会規範のアップデート、個人主義の強化は、結婚という制度ととにかく相性が悪い。
結婚だけが当然のようにそういった変化から取り残された前時代的なシステムのまま維持されていて、「一緒の拠点で生活すること」「生計を合わせること」「姓を同一にすること」「お互いの親族と関わりを持つこと」「結婚式などを通して他の人間関係と接続されること」などといった多数の拘束を前提とするので、本来であれば口出しすべきでない領域とされる問題を、自分と無関係なものとしてキープできなくなる。
架は真実と交際を始める前に良いと思っていた女性が、離婚歴のあるシングルマザーであったことで最終的に連絡を取らなくなった。真実は何となくダサい金居さんや、見た目は良くても人見知りで空気の読めない花垣とのやり取りを自分から切った。真実の両親はもっと直接的に結婚相手候補や架の出自を追及しようとしていた。
これが友人や同僚に対して向ける視線であれば、ルッキズムやジェンダーバイアスなどといった差別意識そのものの発露であり、そんな理由で他人をジャッジすること自体が咎められるだろう。しかし、恋愛や結婚においてはむしろそのような判断が当然のものとして肯定されてしまう。
結婚相手を選ぶ行為に潜む、無意識の傲慢さ
小野里さんが傲慢さと善良さが「矛盾なく同じ人の中に存在してしまう」ことを不思議だと表現する。
しかし、多くの人は自分が結婚相手を選ぶ際にだけ、内に潜む差別意識を発露していること自体に気づいていない。結婚においてはそれがごく当たり前のことだからだ。
正社員でない、貯金が少ない、派手な遊び方をしている、家事ができない、異性の友人が多い、人見知り、親と仲が悪い……そういったライフスタイルや境遇は今の時代であれば全く珍しくないし、友人や同僚にいても何とも思わないが、自分または子どもの結婚相手としては相応しくないと思うだろうし、相応しくないと考えることが差別だともあまり思わないだろう。それが直接的に自分の人生にも関わる決断だからだ。
結婚において他者を無限に尊重することは、自分が尊重されなくなることに繋がる。だからこそ、普段の生活では時代に合わせるために抑制されている自分の差別意識と向き合わざるを得なくなる。傲慢さが良くないものとされる世界であるからこそ、結婚や婚活というイベントで初めて自分の内面に潜む傲慢さが浮き彫りになる。
前項で引用した小野里さんの台詞において、物語の中で直接的には全く関係してこない<身分差別>というワードが選択されていることは意図的だろう。現代社会において、身分差別しても良いとされている唯一のタイミングが結婚というイベントであることを見事に言い当てている。
善良であるだけでは結婚できない
婚活における"傲慢さ"が、選ぶ側として他人の短所と向き合う際に生まれるものだとすれば、"善良さ"は反対に、選ばれる側が自分の長所と向き合う問題として表出する。
つまり、基本的に他者を積極的に傷つけることがよしとされず、もっと言えば人間を順位付けすることすらタブーとなりつつある現代社会において、「大人しい」「親から言われたことを守る」「悪いことをしない」「人間関係の輪を乱さない」などの行動指針を満たしていれば、基本的に他者から否定されることなく生きることができ、何かがあっても常に被害者の側に立つことができる。
そうして育った真実のような善良な人間は、自分のことを「非の打ちどころがない」と自認するだろう。しかし、非の打ちどころがないだけでは結婚できない。全ての足切りラインを超えていることと、最後の1人に選ばれることは根本的に違う。
そう考えると、真実が結婚相談所で相手を見つけられなかったのは善良さそのものではなく、善良であるというだけで自分の価値を高く見積もりすぎてしまったことにあるのではないか。
結婚は選ぶ側でも選ばれる側でもある。善良であっても一方的に他者を値踏みする側に立てるわけではない。
そして、結婚相手に選ばれる上では善良であることはほとんどプラスとして働かない。結婚相手に対してその善良さを貫くことはできないからだ。
他人を悪く言わない、または悪く思っていてもそれを表に出せない真実のような人間であっても結婚相手を選ぶ時にはそれを全うできない。
婚活で値踏みされるのは、自身の善良ではない部分の価値であり、善良さはほとんど意味を持たない。
真実と架の選択は何も変わらない
この作品の構図をよくよく見てみると、実は「傲慢な人間が自分の間違いに気づき傲慢でなくなる」というような話ではない。
この物語を通して架と真実は何かに気づいたように見えて、最終的に何かが変わるわけではない。長い時間をかけて、2人は改めて結婚式を挙げることを決める。つまり、物語が始まる前に行った選択を肯定して終わる。
架が真実を、真実が架を結婚相手に選んだこと自体には2人の傲慢さが色濃く反映されている。自分の価値を高く見積もり、相手を吟味し、決断を先延ばしにし、言い訳を与えられて初めて結婚を選んだ架と、親の意向に流されて自分で決めることから逃げ続けながらも、地元のつまらない相手で妥協しきれなかった真実。
2人が物語を通して何かの変化を受け入れ、自身の傲慢さを否定して終わるとしたら、結婚自体を取りやめて別の相手を探すという選択肢もあったように見えるが、そういう結末にはならない。
結婚を求める限り自身の傲慢さから逃れることはできず、傲慢さを避けるためには「結婚を諦める」という道しかなくなってしまう。2人はそれを望んでいるわけではないからだ。
では、2人は物語を通してどのような変化を得たのか。
選ばなかった人生を諦めるということ
架にとっての元カノ、真実にとってのお見合い相手。架と真実が物語を通してずっと引きずっていたのは、「自分が選ばなかった/選べなかった世界線への未練」であった。
誰かと結婚するという行為は、(実際には元々ゼロであったとしても)そういった人たちと別の幸せを築く可能性を自ら完全に閉じる行為である。
それは、物語の主人公2人にとっての象徴がそれであっただけで、結婚せずに恋愛を楽しみ続ける選択肢、独身のまま仕事のキャリアに邁進する選択肢、気ままな独身生活を謳歌する選択肢、実家に住み続ける選択肢……人生の様々なあり得た未来の中で、その可能性を諦める意味が結婚には必ず付与される。
現代日本は恋愛結婚が既に2~3世代に渡って定着しており、親世代の結婚生活が直接的な比較対象になり得る上に、SNSやメディアやフィクションを通してあらゆる結婚の表象を見て、結婚にまつわる様々な理想を思い描くことが非常に容易となっている。
しかし、多様化した社会において、結婚というイベントの絶対的な正解はなく、全ての理想を同時に叶えることもなかなかできない。
にも拘らず、「1つしか選べず、後から変更することが難しく、後戻りできない」という不可逆性を持っているのが結婚というイベントだ。
「全ての理想を満たす結婚」は存在しない
物語のラストで真実と架は、それぞれの親族の反対を押し切って、誰も招待せず2人だけで結婚式を挙げることを選ぶ。それ自体は非常に極端でリスクのある選択だ。
この2人の決断が、現代の結婚できない男女にとっての何らかの理想を体現しているのだとすれば、それは「親や友人を呼ばない結婚式を挙げたこと」そのものではなく、「自分たちの結婚にとって不要であると判断したものを潔く捨てる」という態度そのものにあるのではないか。
それは、あくまで「結婚における全ての理想を同時に叶えることを諦める」ことのシンボルに過ぎなかったとも捉えられる。
架と真実の2人にとって結婚の最も障壁となっていたのが「周囲の人間から祝福される結婚」という理想を満たすことにあったから、そこから自由になることに意味があった。
2人がロマンチック・ラブに縛られた人間であれば、そこから自由になるためにあえて全員が求める結婚式を挙げて終わる結末もあっただろうし、「結婚すべき」という価値観そのものに縛られていたのであれば、結婚自体を諦める結末もあり得るだろう。
それら全ての理想を同時に叶えられる、叶えなくてはならないという強迫観念こそが、現代社会における結婚を最も難しくしているのではないか。
「自分が叶えられる理想」と「自分の人生では叶えられない理想」を切り分ける。それ自体が、自分自身の価値を正しく規定し直す行為でもあるから、「傲慢さ」は結婚における障害物になる。
自分たちの結婚が、自身の理想を完全に叶えられるという傲慢さと、周囲の人間の理想を完全に叶えてあげたいという善良さから解放されたことで、2人は結婚に踏み切る。2人の選んだ結婚の形は、傲慢なように見えて、実際には地に足の付いた慎ましい選択だ。
有料部分には、記事全体が長くなりすぎてしまったために本文からカットした部分を2章分、掲載しています。
「選ばなかった人生を諦めるということ」の前に入っていた項であり、一部本文と被っている内容もありますが、興味のある方のみ購入いただけたら嬉しいです。
「他者からの承認」を必要としないという意思表示
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