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毎日書く、ということ。


noteに毎日なにかしらを書くようになって
丸1年と3ヶ月が過ぎた。

毎日記事を書いているからといって、
毎日記事にできるようなことが起こるわけでも
毎日記事にできるようなことをしているわけでもなくて。

むしろ、日々なんの変化もない生活を送っている。

それは初めて書いたこの記事の内容から何も変わっていない。


そして何より、毎日書くということについて、
何かを思ってはいるわけでもない。
むしろ、毎日書かなくたっていいんだ、と今は思っていて。

1年を過ぎてから、
毎日書くことをやめようかな?とか
noteしばらくお休みしようかな?とか
辞めなくても無期限でお休みしてみようかな、
と思ったこともあって、そういうことは今後もあるのだろうと思う。

それでも毎日なにかしら書いているので
習慣と呼べるものになってきたのかもしれないし
自分でも気づいていない想いがあるのかもしれない。

そんななかで感じること。


毎日記事を書いていなければ、
じっくり見ることもなかったような出来事の、
その小さな一粒をよくよく眺めるようになる。

そうするとその小さな一粒から、
いくつかのことが見えてきてきたり、受け取れることが出てきたりする。

とくに、今この瞬間の出来事に
心が動きやすくなるのかもしれない。

過去のことはこれまでも今も向き合ってきたことで
未来のことは予定や目標を立てたりしても
想像である、ということはいつも変わらない。

だけども今この瞬間の出来事に対しての
心の動きようというのは、ただ見ているだけなのと
心の目を開いて見ているのとでは大いに違ってくる。

毎日書いていると、心の感度にはっきりと違いが
出てくるようになるのかもしれない、と思うようになった。

毎日書いていてもそれが鈍くなるというか
感じなくなってしまうことは、もちろんある。
心身が疲れているときなんて特にそうだ、
引っ張られるようにして心の感度は下がってしまう
ということに気がつく。
頭にも心にも、靄がかかってしまう。

30分散歩をしても、
心の感度が高ければ、あれもこれも…と
心が振り向くことがある。
その、あれもこれもが言葉となって、
どんどん溢れ出してくるのかもしれない。

だけど心の感度が下がっているときは、
ただ散歩した、それだけのことになる。

そういった、書くことそのものの違いではなくて、
感じたことの違いというのはやっぱり大きいのではないかと思う。

食事とも似ているかもしれない。
携帯を見ながらなんとなく食べていれば
食べ物の味はそれなりにしか感じない。
食事に集中すれば、その味の中にある
小さなことにたくさん気がつく。
塩気のバランスがとてもいいな、
このスパイスがアクセントになっていていいな、
なんていうふうに、ゆっくりと味わう中で気がつくことが増えてゆく。

そうやって、
日常の中にあるそのバランスのいい塩気や、
アクセントになるスパイスたちに、
心が振り向けるというのは、
それだけで日常を少し楽しめているのではないか、
そんなふうに思わせてくれる。

書きたいことが何も浮かばないのも日常、
書きたいことが次から次へと出てくるのも日常、
そのどちらも当たり前にある日常。
うんうんと絞り出そうとしてもダメな時も、
書き始めるとすらすらと書けてしまうことも。

そうして日々書くことに向き合っているから
気づくこと、というのは必ず出てきて、
何もなかった日常に、わずかなわずかな
変化が起こったりするものなのだと思う。

それは、自分だけのために書くよりも、
どこかの誰かに伝われ〜
誰かのもとへ飛んでゆけ〜
と思いながら書くことによって、
小さな粒から想いが飛び散るような、
そんなことも起こるのかもしれない。


白から黒へ移りゆくだけの中にも、
無限のグレーが存在する。

違いがないように見えるものにも違いはあって、
それは周りのことだけでなく、自分自身のことや
自分自身の心や想いについても同じこと。

そうして、ほんのわずかに違うその"なにか"に、
意外にも自分の心が大きく動くようなこともある。
そんなとき、書くことがより一層楽しくなる。

自分の心が動くことに、
よろこばしい気持ちが湧き上がってくるんだ。


なんだか思いつくままに書いてしまって
まとまりがないような気がしますが、
これはこれで、わたしの今の気持ちなんだと思う。


見出し画像。
海月のようにしなやかに。
海の中を漂うように。


それではこの辺で。

今日も1日おつかれさまでした。
最後まで読んでくださってありがとう。

また気が向いたら、来てくださいね。


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