#410 教育勅語問題から見る、名詞に負けず本質を捉える力
約260年という長い徳川の世が、大政奉還によって終わりを告げたのは1867年。そこから日本は明治になり、西欧列強に対抗するため、帝国を目指していきました。帝国を支えるために必要だったのは、強い軍隊。日本は第二次大戦が終わるまで、富国強兵を目指していたと言えるでしょう。
戦後、日本はGHQなど様々な外的干渉を受け、ある意味生まれ変わります。戦争・愛国心など戦前に大切されていた価値観を全否定することで、平和な時代を作り出そうとしたのです。
ここで気をつけなればならないのは、何を否定し、何を肯定するかという問題。例えば、愛国心という言葉を聞くと、その言葉の響気が象徴するような、全体主義的なイメージと結びつくような気がしますが、「国を大切に思う気持ち」自体は決して悪いことではありません。ヴィッセル神戸に所属していたイニエスタ選手が、「日本と神戸は第二の故郷です」と言ってくれたりするのを聞くと、やはり嬉しい気持ちになる。
大事なのは、物事の本質をちゃんと見極めること。その言葉の「イメージ」に捕らわれてしまっては、箱の中へ出ることはできないのです。
去る2023年12月19日に、広島市長の松井氏が、新規採用職員などの研修の資料に「教育勅語」の一部を引用しているというニュースがありました。
それに対して、12月20日の朝日新聞は社説で、松井市長を非難。「教育勅語は戦後まもなく、日本国憲法の基本原則と相いれないとして、国会で排除・失効が決議された。公務にたずさわる者が肯定的に評価・引用することは許されない。松井一実・広島市長は認識を改めるべきだ。」と述べています。
一方、12月31日の産経新聞は、オピニオンで以下の記事を掲載。
記事では、松井氏への非難は的外れであると今度は朝日新聞の社説に異議を唱えています。
個人的には『「教育勅語」だから使用してはいけない』は違うと感じている。大切なのは、その資料が、時代背景を考慮した上で、その内容に現代に繋がる価値があるのか、またその思想が現憲法に反するのではないかということ。それは教育勅語の内容もそうだが、伝え方にも大きく関わる。一部は良いものであっても、全体像として見た時に不適切なものもあるし、その逆の然り。
「教育勅語」という響きやイメージに踊らされては行けないでのす。