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 この世には多くの名詞が存在し、その名詞は時代と共に変化し、また消えます。それはその名詞が体現するイメージが、時代と合わなくなるという理由も多い。数年前までは役を演じる人は性別によって俳優・女優と区別されてきましたが、今では性別に関係なく「俳優」と呼ぶようになっています。

 そんな中、「不登校」という表現もまた変えるべきであるという記事を見つけました。

 記事の中では同時通訳者として世界のトップリーダーと至近距離で仕事をしてきた田中慶子氏と台湾在住のノンフィクション・ライターの近藤弥生子氏と対談。

 田中氏は、不登校という言葉が「学びを辞めてしまった人」というイメージを連想させることに対する違和感を感じていると指摘し、近藤氏は「日本である学校の校長先生とお話したのですが、その校長先生は昔、ある生徒に「私が学校に適応できないのではなく、学校が私たちに適応していないだけでしょう」と言われて、ハッとしたと言っていました」というエピソードを紹介しています。

 多様性の時代の中にありながら、学校が未だ「学びのメインストリーム」と考えられている今。そのメインストリームから外れることに対する社会からの目が、逆に彼ら自身の状況を深刻化させている現状があるように思うのです。

何か特別な名詞がつけられることによって、そのことを意識するという利点と、その名詞があることによって、逆にそれが偏見の目で見られることもある。私たちが、何をどのように表現するのかをもう一度考える必要があるのではないかと思わせられます。


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