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名作/迷作アニメを虚心坦懐に見る 第3回:『機動戦士ガンダムZZ』

はじめに:不人気作品としての『ZZ』

 『機動戦士ガンダムZZダブルゼータ』(1986~1987年、以下『ZZ』と略称)は、『機動戦士Zゼータガンダム』(1985~1986年、以下『Z』と略称)の続編にあたり、現在まで続く「ガンダム」というIPの歴史のなかでも比較的早い時期に位置する富野由悠季の監督作でありながら、不人気の作品のようだ。2018年に『機動戦士ガンダム』(1979~1980年、以下『ファースト』と略称)放送40周年を記念してNHKで実施された「全ガンダム大投票40th」(投票総数1,740,280票)において、『ZZ』は全部門で低いスコアを記録している。「アニメ作品」部門で『ZZ』は22位(ちなみに『ファースト』は1位、『Z』は2位)、「モビルスーツ」部門でZZガンダムは39位、「キャラクター」総合部門で『ZZ』の主人公・ジュドーは43位(その他の『ZZ』のキャラクターも、エルピー・プルが29位、ルー・ルカが56位、プルツーが58位にランクインするのみ)、「ガンダムソングス」部門で『ZZ』の前期オープニングテーマ「アニメじゃない~夢を忘れた古い地球人よ~」(作詞:秋元康、作曲:芹澤廣明、編曲:鷺巣詩郎)は38位にとどまっている。

 アニメスタイル編集長の小黒祐一郎もコラム「アニメ様365日」のなかで、『Z』および『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア』(1988年)については不満点も含めてかなりの紙幅を費やして語る一方、『ZZ』については「『明るいガンダム』がセールスポイントだったが、実際には明るいばかりのシリーズにはならなかった」という一文を書くのみで済ませている。

 また、キャリコネニュースに昨年掲載された記事(2021年7月11日公開)においても、『ZZ』に対する酷評が書き連ねられている。この記事が引用に値するものかはともかく、『ZZ』に対する典型的な反応が黙殺と否定のいずれかであることを示すサンプルとして取り上げることは許されるだろう。

そういえば、『ZZ』の序盤って、前作『Z』との雰囲気の違いが物凄くしっかり描写されてる。だから、Zから続けて見ると、「アイス食ってたはずがいきなりカレー味になった」みたいな気持ちになってしまう。いくらなんでもテイスト違い過ぎだろ、と思ってしまうのだ。で、その軌道変更にこっちの身が持たないというか……。

 このような不評の嵐のなかでは、多数決という政治の論理に従って、『ZZ』を飛ばしたり腐したりするのが空気を読んだ「賢い」態度なのかもしれない。しかし、このエッセイ企画「名作/迷作アニメを虚心坦懐に見る」(以下、「虚心坦懐」と略称)では、齢三十を過ぎて初めて「ガンダム」に触れた人間が虚心坦懐に歴代シリーズを見ていくことを重視しているため、先行する評価をしっかりと確認しつつも、そこへの迎合に甘んじることなく所感を述べていきたい。
 私は『Z』全50話を駆け抜けたあと、小休止を挟まずに『ZZ』を見始めた。私を待っていたのは、途端に頭のなかが感嘆符疑問符(!?)で埋め尽くされるような衝撃的な視聴体験だった。「アニメじゃない/本当のことさ」――オーバー・ダブなのかリバーブなのか、新井正人の真に迫る歌声が耳朶に響く。歌詞が画面の下部に表示されない新鮮なオープニングのなかで、しゃれこうべに始まり、猿人/原人、新人、『ファースト』の主人公・アムロ、『Z』の主人公・カミーユを経てジュドーにいたる人類進化(!)のシークエンスが目に飛び込んでくる。私は愉快な映像と主題歌にすっかり心を奪われ、オープニングを立て続けに三回再生してから、本編を見始めた。そして、放送直前特番としか言いようがない第1話「プレリュードZZ」に何度も失笑するうちに、私は『ZZ』を特段の苦痛なく完走できそうだという見通しを持った。シンタの「こらこら、本気にするなよな!」というセリフや、ジュドーの「しっかしひっでえ世の中!」、「けっこうキツイんすよこれが!」といったモノローグは娯楽作品としての強度を保ちつつ、品位を落としきらない絶妙な調整の結果に思えた。
 私は「虚心坦懐」の第2回において、「『Z』というアニメに対する印象は、視聴時の体調や精神状態、前日の睡眠時間などに大きく左右される」と書いた。これとは対照的に、『ZZ』は気軽に視聴して、明日への活力をもらえるアニメである。その意味では、『Z』よりも『ZZ』のほうが「面白いアニメ」という形容にふさわしい作品なのかもしれない。こうして、私の目は私の身体を離れて、『ZZ』の不思議な時間のなかに入っていった。

『ZZ』が描く戦争の陰

 「ガンダム」というタイトルには、小黒が前掲のコラムで指摘するように、「エキセントリックで、難解なロボットアニメ」というイメージがつきまとっている。かかるイメージを墨守しようとする「硬派」な立場にとっては、コメディやギャグの色彩が強い『ZZ』が外れ値に見えるであろうことは理解できる。確かに、『ZZ』が過去作とはうってかわって明るい作風をしていることは疑いない。しかし、そのたくましい明るさは『ZZ』が戦争の陰を描いた作品であることの裏返しなのであって、『ZZ』が『ファースト』および『Z』との連続性ないし相補性を有していることもまた否定しがたいのではないだろうか。
 「虚心坦懐」の第1回でも触れたように、『ファースト』は「良心の傷まない戦争ごっこ」(藤津亮太)ではあれ、人類同士の戦争を正面から描いた。それに続く『Z』は「ニュータイプ」同士の内輪揉めとして戦争を描いた。『ファースト』と『Z』は作風こそ大きく違えど、戦争の立役者にフォーカスした作劇となっているという点では共通している。これに対して、『ZZ』は戦争の副次的な影響、すなわち戦争の陰を描いている。サイド1の1番地コロニー・シャングリラでジャンク屋を営む少年たちは戦争のせいで親の庇護下から外れており、自力救済を余儀なくされている。第2話「シャングリラの少年」では、Zガンダムを盗み出すためにアーガマに潜入したジュドーたちとファのあいだで次のような会話が交わされる。

ファ   あんたたち学校へも行かずに、いつもこんなことしてるの? 親を泣かせることばかりしてて、何が楽しいの?
イーノ  学校なんていったい何を教えてくれるのさ? そんな暇があったら……。
ジュドー 稼がなきゃならないのさ。戦争のおかげで、親は二人とも出稼ぎなんだぜ。
ファ   お母さんも?
ジュドー 他のコロニーへ出稼ぎさ。仕送りしてくれるけど、空気や電気の料金は、税金以上に取り立てられるからな。

 ここから窺われるのは、一年戦争やグリプス戦役を通観できるのは視聴者の特権であり、戦争の立役者たちが派手に打ち合っては散っていく浪漫など、市井の人々にとっては知ったことではないということだ。『ZZ』の序盤でモビルスーツの撃墜とそれに伴う戦死がゲーム感覚というか、極めて軽く描かれるのも、戦時下で荒んだ子供の主観として見れば納得できる。「虚心坦懐」の第2回で述べたように、『ファースト』と『Z』の関係は叙事詩と悲劇の関係に類似しており、『Z』は『ファースト』に対する一種の「嫌がらせ」として機能しているが、言うなれば『ZZ』は第二段階の「嫌がらせ」である。「良心の傷まない戦争ごっこ」に血湧き肉躍った視聴者も、「ニュータイプの修羅場」を見て感傷に浸った視聴者もその報いを受け、『ZZ』から冷や水を浴びせられる。だが、「子供はみんなニュータイプ! 見せてやろうじゃないの、大人たちにはさ」(第1話「プレリュードZZ」)という標語に集約されるような『ZZ』の基調をなす「クソガキ」的な言行が戦争の陰の一つであることを思えば、『ZZ』を『ファースト』や『Z』の背面として受容することは可能ではないだろうか。
 このほかにも、『ZZ』は戦争の陰の諸相を提示している(なお、「諸相」という言葉は「素描」と並ぶ生煮えの逃げ口上として学術論文では忌避されているが、本稿は学術論文ではないので使わせてもらう)。第14話・第15話「幻のコロニー」(前・後編)では、人々から忘却されたがゆえに戦火を逃れ、「井の中の蛙」の宗教国家として存続してきたムーン・ムーンというコロニーの様子が描かれる。第25話「ロンメルの顔」では、地球上の砂漠地帯で時代に取り残されたジオン残党・ロンメル隊が辿る末路が描かれる。第40話「タイガーバウムの夢」では、「平和」を享受する中立コロニーのタイガーバウムを舞台に、美女/美少女を集めてハーレムを形成する支配者と重税にあえぐ人々が対比的に描かれる。こうした諸相はいずれも『ファースト』および『Z』で描かれなかったものである。
 なお、『ZZ』が戦争の陰を描いた作品であることは、ジュドーが軍人/戦士として社会化されきらない点からも説明できる。第16話「アーガマの白兵戦」において、ジュドーは宇宙空間を漂う敵兵を狙撃することをためらい、敵を取り逃がしてしまう。第40話「タイガーバウムの夢」においても、ジュドーは生身のハマーンを攻撃できず、ハマーンから「お前が生身の人間を殺せない、可愛い坊やだって知っているのさ」と見透かされてしまう。モビルスーツなら平然と撃墜できるが生身の人間は撃てないという心理は、SNSの発達によって現代人には理解しやすくなったように思う。Twitterのアカウントならいくらでも誹謗中傷できるが、「中の人」が自死を遂げてしまったり、「中の人」から自分の職場に内容証明郵便を送付されたり、訴えを提起されたりすると途端に慌ててしまう――そんな矮小な人間が現代にはあふれているからだ。戦時下における勇ましい口吻など、欺瞞に満ちたものでしかない。そのことを明るい作風に紛れ込ませて描いたのが『ZZ』の功績と言えるのではないだろうか。

美少女カタログアニメとしての『ZZ』

 少々堅苦しい話から始めてしまったが、『ZZ』は多種多様な美少女がバランスよく配置された美少女カタログアニメとしても優れているため、本節ではこの点について述べる。
 メインキャラクターだけ見ても、強気な正統派(?)美少女のルー、男勝りなおてんば娘のエル、天衣無縫で感情を制御できない「ロリっ娘」のプル(友人のガンダムファンP氏によると、エルピー・プルの名前は漫画系ロリコン雑誌の『レモンピープル』に由来するとのこと)、向こう見ずな兄・ジュドーのせいで苦労が絶えないしっかり者の妹・リィナといったようにバリエーション豊かである。
 また、エゥーゴ側の女性キャラクターが全体的に幼く未成熟な印象を与えるのとは対照的に、ネオ・ジオン側には肉感的な女性キャラクターが配置されており、「ロリコン」趣味のない視聴者にも居場所が用意されている。実は「男の理想」的な良妻になりそうなハスキーボイス美女のキャラ・スーン、ネオ・ジオンの露出の多い軍服のせいで異常なセックス・アピールを放っているイリア・パゾムが敵方の二大巨乳……ではなく巨頭である(マシュマーが第11話「始動!ダブル・ゼータ」で「まったく! あんな女に大きな胸をされ……いや違った、大きな顔をされるとは!」と言っていたことへのオマージュ)。なお、第36話「重力下のプルツー」以降、グレミー旗下で参戦してくるプルツーは体格や顔こそプルに瓜二つだが、大人っぽい雰囲気と戦闘マシンのような冷淡さにおいてエゥーゴ側とは差別化が図られており、第46話「バイブレーション」から第47話(最終回)「戦士、再び……」にかけての転身と挺身も含めて最後まで目が離せない。
 脇役についても、既婚者のブライトに思いを寄せる「めんどくさい」女性のエマリー(ラビアンローズはエマリーの外性器のメタファーなのか)、やや空気が読めない眼鏡っ娘のミリィ、ミステリアスな巫女のサラサ・ラサラ姉妹など、他の女性キャラクターとは一線を画したラインナップで構成されており、視聴者を飽きさせない。このように、次から次へと美少女キャラクターが登場しては主人公たちを振り回す様子は見ていて楽しいが、ジュドーが妹思いの「お兄ちゃん」であるという軸は全編を通じてブレることがないため、視聴時の安心感も大きい(当然ながら、妹とうっかり恋愛などということにはならない)。美少女カタログアニメでありながら品位を落としきらない。この点は間違いなく『ZZ』の魅力の一つと言うことができる。
 しかし、それにしても、ハマーンは不遇なキャラクターであることだ。『Z』において、ハマーンは第三勢力・アクシズを率いる女傑として堂々入場を果たしながらも十分な見せ場を用意されず、キャラクターとしての掘り下げも中途半端に終わった。『ZZ』においても、前述の通り美少女キャラクターが続々と追加投入されたせいで、すっかり影が薄くなってしまった。友人のガンダムファンP氏によると、ハマーンがぽっと出のジュドーにご執心であることに不満を持っている人も少なくないとのことだが、そもそもキャラクター造形がうまくいっていないものについて「キャラ崩壊」式の語り方をするのは的確でないようにも思えるところであり、ハマーンが好きな人は「公式からの供給不足」に悩む人と同様、苦しい立ち位置に追いやられているなと少し不憫に感じてしまった。
 なお、私自身は『ZZ』の女性陣のなかでは断トツでキャラ・スーン、次点でプルが好みである。キャラ・スーンを演じた門間葉月は単発の出演となったが、彼女のかすかす・がさがさ・ごわごわした「声のざらつき」(le grain de la voix)はたまらなくエロティックな喉を想起させてやまない。この話をしたとき、『ZZ』のファンである先輩のQ氏は「ライラが好きなら確かにキャラは好きだろうねえ」と言っていた。

「プレッシャー」に関する開き直った描写

 そんな美少女カタログアニメとしての『ZZ』においても、「ニュータイプ」に関する奇っ怪な描写は健在である。「虚心坦懐」の第1回において、私は『ファースト』終盤の映像表現について「『ニュータイプ』に関する描写はギャグにしか思えなかった」と書いた。その後、「ニュータイプ」に関する描写は『Z』・『ZZ』と作品を追うごとにサイケデリックな色彩を弱めていったが、その代わりとして、物語の終幕に向かって加速していく強烈なドライブ感を帯びるにいたった(ただし、『Z』第47話「宇宙そらの渦」では、カミーユとハマーンは不可思議な時空で通じ合う。これは『ファースト』におけるアムロとララァの念話をなぞるような描写である)。
 『Z』におけるシロッコの登場以降、「ニュータイプ」絡みの文脈で本格的に使われだしたキーワードに「プレッシャー」という単語がある。あるキャラクターが敵艦や敵モビルスーツから放たれる「プレッシャー」を感じ取る様子を描くことで、彼/女が極度に勘が鋭く、鋭敏な認識能力を持った「ニュータイプ」であることを示唆するわけだ。この単語が使われ始めた当初は、「プレッシャー」を感じ取る側の受信力が優れているのか、それとも「プレッシャー」を与える側の送信力が優れているのかは判然としなかった。ところが、『Z』第46話「シロッコ立つ」の後半において、睨み合うシロッコとハマーンが人間状のオーラをぶつけ合うかたちで「プレッシャー」が具現化されたことで、受信力の問題は一気に後景に退いたように思われる。宇宙空間で対峙する二人を見て、レコアは「どうしたというの? ジ・Oもキュベレイも動かない」と言うが、これほど視聴者の所感を代弁したセリフもあるまい。『Z』第49話「生命いのち散って」では、カミーユの搭乗するZガンダムがピンク色の光に包まれ、ヤザンの攻撃を跳ね返す。ヤザンは「あの光、バリアなのか?」と驚きを隠さないが、ここまで来ると「ニュータイプ」は波紋使いやスタンド使い(『ジョジョの奇妙な冒険』)と同列の異能力者に見える。『Z』第50話(最終回)「宇宙そらを駆ける」においても、カミーユは「この俺の身体を通して出る力」を振り絞ってシロッコを撃破する。宇宙戦争が急激に「異能バトル」と化していく様子に、私はどうしても笑いを禁じえなかった。レコアとロザミアの言行にうんざりしていた自分にとっては、この笑いは解放の笑いでもあった。
 とはいえ、このような「ニュータイプ」および「プレッシャー」に関する描写をギャグとして受け取ってよいものか、私は判断しかねていた。『ZZ』第27話「リィナの血(前)」において、妹のリィナを撃たれて激昂したジュドーの「プレッシャー」が人間状に具現化し、ハマーンがそれに気圧されて「この私にこんなにもプレッシャーをかけた……ジュドー・アーシタ、あれは危険すぎる」とひとりごちたときですら、まだ態度を決めかねていた。
 だからこそ、『ZZ』第45話「アクシズの戦闘」は私にとって僥倖であった。というのも、「ハマーン様万歳!」と叫び、光を放ちながらモビルスーツごと自爆するマシュマーに対して、ラカンが「何の光!?」という反応を示したことで、ここは笑っていいシーンなのだなと素直に思えたからだ。このセリフによって「ニュータイプ」に関する描写がギャグの域に昇華されたとまでは言わない。しかし『ファースト』以来、「ニュータイプ」に関する描写に当惑してきた私としては、「ガンダム」も所詮アニメの一つでしかないのだと思わせてくれる開き直った描写によって、いくらか肩の荷が下りた気がしたのも事実である。「アニメじゃない/本当のことさ」――いや、実際にはアニメなのだ。『ZZ』の気軽さは、私が今後「ガンダム」の歴代シリーズを順次見ていく際にも、定期的に立ち返ることのできる貴重なオアシスとなることだろう。

結びに代えて

 以下では、本稿の結びに代えて、項目を立てて十分に語ることができなかった雑感を書き残しておく。

1. 『ZZ』に登場するモビルスーツについて

 本稿の冒頭で述べたように、ZZガンダムは不人気の主役機となっている(「全ガンダム大投票40th」の「モビルスーツ」部門で39位)。ZZガンダムはよく言えば『Z』の終盤でシロッコが搭乗したジ・Oのような重厚感のある主役機だが、悪く言えばいかにもおもちゃ的な大味の三機合体変形ロボットであり、ガンダムのスレンダーなシルエットやZガンダムのシャープネスと比べてゴテゴテした印象を拭えない。そのうえ、『ZZ』の劇中でもジュドー自身が機動性を重視してZZガンダムよりZガンダムを選好したりするから始末に負えない。ジュドーは「Zガンダムが一番身軽だな」(第23話「燃える地球」)、「こっちのほうが小回りが利く」(第25話「ロンメルの顔」)と発言して、二度にわたってルーからZガンダムのパイロットの座を奪っている。こうした雑な扱いも相まって、ZZガンダムが不人気の主役機となっているのもむべなるかなと言わざるをえない。「虚心坦懐」の第2回において、私は「尖りすぎていないがっしり感」を考慮に入れてZガンダムよりもメタスを高く評価したが、ZZガンダムを見たことで相対的にZガンダムの評価が高まったことは認めよう。
 なお、ZZガンダムがぱっとしない一方で、ネオ・ジオンのモビルスーツには目を引く機体がいくつかあった。私が特に惹かれたのはR・ジャジャバウの二機である。鮮やかな朱色と頭頂部から伸びる角のようなパーツはいつ見ても美しく、ほれぼれとしてしまう。次点としてガザDもデザイン的にクールだと思うが、機体の色はガザCのほうが魅力的に感じるため、ガザDを一位に推すことは心情的に難しかった。

2. 「サイレント・ヴォイス」について

 第26話から第47話(最終回)まで『ZZ』を飾った後期オープニングテーマ「サイレント・ヴォイス」は、サビの歌詞が技巧的で素晴らしい。

Silent Voice, Silent Voice
優しいをした誰かに逢いたい
Silent Eyes, Silent Eyes
ささやいてくれよそばにいるよって……
サイレント・ヴォイス

(ひろえ純「サイレント・ヴォイス」)

 ここでは、メロディーに乗せて言葉を紡ぐことで、論理の飛躍を繰り返しながら聴き手を先へ連れていくことができるという詩の特性が最大限に活用されている。メロディーを聴くかぎり、まず意識されるのは「Silent Voice, Silent Voice/優しいをした誰かに逢いたい」および「Silent Eyes, Silent Eyes/ささやいてくれよそばにいるよって……」という二つのブロックである。しかし、このサビは意味の切れ目としては「優しいをした誰かに逢いたい/Silent Eyes, Silent Eyes」および「ささやいてくれよそばにいるよって……/サイレント・ヴォイス」という二つのブロックに分かれていると言えるのではないだろうか。この見立てが正しければ、サビ冒頭の「Silent Voice, Silent Voice」は唐突に投げ入れられた、全体から浮き上がった歌詞であることになるが、サビで曲名が連呼されること自体は本邦ではさほど不自然ではないため、メロディーに乗せて歌われると奇妙な感じには聞こえない。これこそ飛躍した論理をアクチュアライズする詩の力であり、映像的にもほのめかされるハマーンの孤独とも響き合って、「サイレント・ヴォイス」を語り継ぐべき名曲の一つにしている。

 次回更新は2022年6月、主題は『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア』を予定している。

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 『ZZ』にはタイトルコールがないため、第2話「シャングリラの少年」を初めて見たときには一抹の寂しさを覚えたものだった。しかし、私はすぐに気づくことになる――ジュドーのモノローグで構成されるアバン・次回予告がタイトルコールの代わり以上の傑作パートであることに! 以下では、『ZZ』各話のアバン・次回予告について文字起こしをしているブログ記事を参考までに掲げておく。

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髙橋優
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