TVアニメ『モンスター娘のお医者さん』が描き出す信頼・希望・愛の妙味:代替医療や優生思想を乗り越えるためにいま考えるべきこと
はじめに
モンスター娘というジャンルは若手/新人声優の花園(florilegium)である。先日最終回を迎えたTVアニメ『モンスター娘のお医者さん』も例に漏れず、異種族間の共存と連帯を描くことを通じて、信頼・希望・愛の美しい有り様を示した傑作声優アニメと言うことができる。本稿は『モンスター娘のお医者さん』を声優アニメとして論ずることによって、医者という職業のあるべき姿と「信頼」の重要性を提示するものである。
最初にお断りしておくと、本稿では異形/人外(以下、異形で統一)という表象の問題は深堀りしない。要点だけ簡潔に述べておくと、異形とは人智を超えた存在であって、人間の制御できるものではないという点で、怪獣(Ungeheuer)に近い表象である。それゆえ人間と異形の間には、いつ殺されてもおかしくないという抜き差しならぬ関係が成立する。このきわどい関係は、モンスター娘というジャンルに当初からつきまとって離れない。本作においても、とりわけ第8話「進撃のギガス」に顕著なように、異形の圧倒的なポテンシャルは否定されていない。人間のおよそ10倍の身長を持つギガス族の診察のためには、足場を組んで命がけの高所作業をしなければならないのであり、これはギガス族の特定の個体が友好的であるか否かに左右されない。
この例示から明らかなように、本作を論ずるにあたって、異形の問題に触れないのは不十分との謗りを免れない。ただ、本作の監督を務める岩崎良明はナタリーのインタビューの中で、「モンスター娘のことをあまり知らない人にとっては『モン娘入門編』のような形でも提示できたらいいのかなと思います」と述べているため、リヴューにおいても「モン娘入門編」として、異形の問題をとやかく言わない態度は許されるのではないかと考えている。議論が散漫になるのを防ぐため、異形の問題については別稿を期したい。
また、本稿はモンスター娘の系譜学を意図するものでもないので、(アニメ化された作品だけを挙げると)『モンスター娘のいる日常』(2015年7月期)、『亜人ちゃんは語りたい』(2017年1月期)、『セントールの悩み』(2017年7月期)、『異種族レビュアーズ』(2020年1月期)といった作品群の中に本作を位置づけることも行わない。
以上をご了承の上、本稿をお読みいただきたい。
医者という職業の特質
本作の主人公、グレン・リトバイトは魔族と人間が共存する街「リンド・ヴルム」で魔族専門の診療所を営む医者(種族は人間)である。魔族専門とは言うものの、本作における魔族は知能を持ち、意思疎通が可能な相手として描かれているため、グレンは獣医ではなく人間相手の医者と同視して差し支えない。医者は患者を治す仕事だとみなされがちだが、医者という職業の特質は「治す」という結果にあるわけではない。医者と患者の関係は、医者が主体で患者が客体となるような一方向のものではない。勿論、治療の過程では、PCR検査や抗原検査、X線一般撮影や内視鏡検査など、反応や患部の状態を観察することが伴うものの、多くの場合、医者は患者の問診を通じて蓋然性の高い疾患を特定するのであって、そこに自然言語が介在することは否定できないであろう。医者という職業の特質は、自然言語による意思疎通の過程にあると言うべきである。
患者の操る言語は医者の技術的な言語とは異なる。患者は医学の専門用語を知らず、自分の身体的・生理的感覚もうまく言葉にできないことが多い。例えば、人体における胸部と腹部の境目が解剖学的には厳密に決まっているとしても、患者は厳密な意味での「腹部」を指して「胸が痛い」と訴えるかもしれない。この場合、医者が「胸が痛い」という患者の申告を「胸部に疼痛を覚える」などと解釈してしまうと、両者の認識に齟齬が生じてしまい、適切な治療が行えなくなってしまう。従って、医者に求められるのは、患者の申告を引き出し、それに寄り添い、患者と認識を合わせることなのだ。その意味で、医者は企業のお客様相談室のオペレータに似ているとすら言える。患者の言いたいことを医学の専門用語にパラフレーズするのは最後の段階の話であって、最初の段階では患者に対する傾聴の姿勢が重要となる。
このような医者という職業の特質を踏まえると、医者役と患者役によって、収録の現場はまさに診察室の様相を呈してくる。アニメの収録は台本に基づいて行われるのが標準的だが、それは声優が台本によってがんじがらめに縛られていることを意味しない。特にアニメの場合、ノベルゲームやアプリとは異なって、個々の台詞(及びその発声)は相互に影響を及ぼし合う余地を持っている。声優は台本を受領してから収録までの間に、台本を読み込んで演技プランを立てるが、そのプランが収録の現場でそのまま採用されるとは限らない。なぜなら、共演者(及び音響監督)がどう出てくるかが未知数だからである。各演者が持ち寄った演技プランはぶつかり合い、時に打ち砕かれ、時に修正を迫られ、OKテイクへと収斂していく。アドリブを念頭に置くと分かりやすいが、収録の現場は変容と逸脱の契機を孕んでおり、声優は常に共時的な変容可能性に晒されているのである。この点については、認知神経学者のクリス・フリスが述べていることが参考になる。
すなわち、収録の現場におけるOKテイクへの収斂は「コミュニケーションの輪」の擬制であり、本作に即していえば、医者役と患者役の認識合わせがダイナミックに展開する過程であると言うことができる。なお、目下のコロナ禍によって収録環境に変化が生じている可能性はあるが、「モンスター娘のお医者さんスペシャルラジオ」(2020年7月8日配信)の中で、主演の土岐隼一が「収録もね、結構前に終わらせていたので」と述べており、公式ツイッターアカウントが2020年3月22日に演者の集合写真をアップロードしていることに鑑みて、本作については対面収録を前提として議論を進めていく。
信頼・希望・愛
では、医者が患者の申告を引き出すために不可欠なものは何だろうか。それは紛れもなく信頼である。患者の中には医者に不信感を抱くと、処方された薬を捨てて帰ってしまい、二度と来診しない人もいると聞く。診療所の評判を下げないという考慮とは別に、そもそも治療の出発点には信頼が置かれなければならない。
本作においても、各話に登場する患者たちは最初からグレンを信頼しきっていたわけではない。蹄の歪みに起因する不調に悩むケンタウロスの闘士、ティサリア。エラの疾患でうまく歌えなくなったマーメイドの歌い手、ルララ。自分の身体を構成する複数の遺体の声に苛まれるフレッシュゴーレムの護衛兵、苦無。換羽期を迎えて飛べなくなったハーピーの孤児、イリィ。彼女たちは当初、グレンの強引な施術に抵抗し、グレンの無理解に憤り、医者という職業自体を憎み、医者による治療そのものを拒否していた。本作は個性豊かな患者たちが治るまでのプロセスを丹念に描くが、最大の見所は彼女たちがいかにしてグレンを信頼するに至るかという点である。この信頼というテーマを考えるにあたって、アウグスティヌスが初期の著作で示した「医者の比喩」が手がかりを与えてくれるので、以下で取り上げる。
アウグスティヌスは、自身の理性(ratio)との内的対話篇である『ソリロキア』第一巻第六章において、「精神の眼はいわば魂の感覚のようなものだ」(mentis quasi sui sunt oculi sensus animae)と述べたうえで、眼が見える三つの条件――①ちゃんと用いることのできる眼を持つこと(ut oculos habeat quibus iam bene uti possit)、②視覚がはたらくこと(ut aspiciat)、③見ること(ut videat)――を提示する。
理性との対話は以下のように続く。
上記引用部分の直後にも、同様の趣旨の記述が確認できる。
ここで「信仰」と訳されているのはfidesという単語であり、この単語は基本的には「信頼」や「信義」という意味で使われるものである(法律上の善意/悪意もbona fides/mala fidesといい、善き確信/悪しき確信という意味になる)。そのため、本稿では語感を生かして「信頼」と訳すことにする。いずれにせよ、重要なのはアウグスティヌスが「医者の比喩」を用いて、信頼・希望・愛(fides, spes, caritas)という三つの徳の必要性を訴えたこと、そして、神への直観を得る出発点に信頼を置いたことである。勿論、アウグスティヌスも「こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です」(第一コリント13:13、邦訳は新改訳に拠った)という聖書の一節を否定はしていないが、彼が敢えて信頼から出発したのは非キリスト教徒にとっても啓発的である。すなわち、患者が治るためには、医者を信頼し、医者の提示する治療法を実践すればよくなるはずだと希望を持ち、よくなりたいと思うこと(よくなった後の人生を愛すること)が必要であり、だからこそ医者は信頼に足る人柄と知識を備えなければならない。
このことをよく示しているのが、本作の第9話から第11話にかけて展開される「リンド・ヴルム大手術」編である。物語はリンド・ヴルム議会の代表を務める火竜のスカディが式典中に倒れて搬送されたことをきっかけに大きく動き出す。スカディは心臓付近の悪性腫瘍に蝕まれているが、治療を頑なに拒んでおり、主治医や側近を悩ませていた。グレンの師であり、スカディの主治医を務めるクトゥリフは、スカディ本人に「病を治す気が全く無い」ことが最大の問題だと言う。「グレン医師とて治せはせぬだろう」とこぼすスカディに腫瘍の切除出術を受けさせるため、グレンは奔走することになる。
グレンは三顧の礼よろしく、幾度もスカディのもとを訪れる。スカディはグレンの粘り強い姿勢に免じて、手術を受けない理由を語る。百年にわたる大戦争が終結を迎えた後、戦争を嫌うスカディは魔族と人間が共存する街を十年かけて築き上げ、街に竜の名を冠した。自身の使命を完遂した今、もはや生き永らえる理由はない――そう考えるスカディに対し、グレンは「もっとこの街の行く末を見てみたくはないですか。こんな魅力的な街がこれからどこに向かうのか、見ていてほしいんです。あなたに見守ってほしいんです」と語りかけ、手術への承諾を得ることに成功する。
ここで重要なのは、グレンがスカディ周辺の者たちの思いを一人ずつ列挙して、「お手伝いを僕らにさせてもらえませんか」と一人称複数で語りかけたことだ。主人の身を案ずる側近の苦無、治療のため試行錯誤を重ねる主治医のクトゥリフ、火竜の身体を切開・縫合できる強靭な道具を作る職人のメメ、スカディの快復を祈る市民を代表して広場で歌うルララ。さらに舞台裏では、火竜に効く麻酔を調達するティサリア、臨時の助手として執刀を担当するアラーニャも挙げなければならない。グレンがこれまで紡いできた信頼の絆、その一本一本が織り合わせられて、スカディを「よくなるはずだ」という希望、そして「よくなりたい」という愛へ傾けさせる力となったのである。こうしてスカディの応諾により始まった「リンド・ヴルム大手術」は無事成功し、物語は大団円を迎える。本作はモンスター娘というフェティシズムに訴えかけながらも、町医者を主人公として、信頼・希望・愛の重要性を美しくも周到に描いた傑作と言えよう。
声優陣の総合力が光る快作
出演者についても何人かピックアップしてコメントする。本作は声優陣の総合力が光っており、MVPというものを決め難い作品である(強いて選ぶならスカディ役の種﨑敦美)。これは牽引力の強い声優が出演していないという意味ではなく、世界観や舞台設定を踏まえてトーンを調整できる「品の良い」声優が揃っているという肯定的な評価だ。スカディの頑なな心を総合力で動かす以上、前のめりになる役者はむしろ邪魔になる。
グレン役の土岐隼一は本作が初主演作となる。社会科の教員免許を持つ彼が「先生」役を演じるとは奇縁を感じるが、クセのない爽やかな好青年感が新米の医者という役柄に説得力を与えており、若手声優である彼自身との二重写しを楽しむこともできて良い。グレンの助手・サーフェンティット役を務めるのは大西沙織。サーフェンティットは「メインヒロイン」と呼ぶのが憚られる役柄だ。グレンの正妻ボジションであり、既に信頼構築フェーズを終えているがゆえに劇的な進展もなく、恋のライバルが増えるたびに嫉妬と焦りを覚える。このようなスタティックな役柄は、患者役とのダイナミックな展開が主眼となっている本作において、得てして影の薄いものになりがちだ。しかし、大西沙織は役柄の要請に、静かに睨みをきかせる安定感をもって応えた。ガヤに掻き消されまいとする静かな闘志。大西沙織=仕事人という印象がさらに強まる視聴体験だった。
患者側については、苦無役の河瀬茉希、イリィ役の鈴代紗弓、メメ役の岡咲美保という並びが新時代の到来を感じさせる。『ゾンビランドサガ』紺野純子役でファンを増やした河瀬茉希は、「ゾンビ繋がりでの配役か」といった邪推を許さない強靭さを披露してくれた。屍人にだって様々な個性があって然るべきと再認識させてくれる良い仕事だった。『ぼくたちは勉強ができない』武元うるか役の好演が記憶に新しい鈴代紗弓は、活発で純情なスポーツ少女の派生で相変わらずの豪速球を投げてきており、聴いていて楽しいながらも圧倒される。『転生したらスライムだった件』(通称転スラ)や『乙女ゲームの破滅フラグしかない悪役令嬢に転生してしまった…』(通称はめふら)などで活躍の場を広げる岡咲美保は、アイムエンタープライズらしさとでも言うべきまとまりの良さを遺憾なく発揮しており、今後のさらなる活躍が期待される。また、ティサリアの従者の一人・ケイ役には『ダンベル何キロ持てる?』で衝撃的な主演デビューを果たしたファイルーズあいが配されるなど、とにかく脇の甘くない布陣も本作の魅力を下支えしている。
ちなみに、本作の出演者のうち四名が第14回声優アワードにノミネートされており(種﨑敦美が助演女優賞、鈴代紗弓・岡咲美保・ファイルーズあいがそれぞれ新人女優賞を受賞している)、本作の配役はまさに若手/新人声優の花園(florilegium)と呼ぶに相応しい並びと言える。
なお、以下余談だが、ハーピーの少女という役柄を演じる声優には、生理現象としての排卵シーンがつきまとう。鈴代紗弓による排卵シーン(第4話)が放送された一週間後の2020年8月10日、2015年に『モンスター娘のいる日常』でパピ役を務め、排卵の痴態をお茶の間に晒すパイオニアとなった小澤亜李が結婚報告を行った。この偶然もまた、新時代の到来を感じさせる。ちなみに、小澤亜李は第11回声優アワードで新人女優賞を受賞していた。「万物は流転する」とはこういうことを指すのだろう。
もう一歩先へ:信頼が破砕するとき
とはいえ、以上述べてきた信頼・希望・愛の有り様は、患者が「治る」または「よくなる」ことを前提としており、あまりにナイーブな図式だという批判も想定される。不治の病や難病に罹った方にとっては、医者を信頼し、「よくなるはずだ」と希望を持つのが難しい場合もあるだろう。しかし、我々はどうあっても信頼から逃れられず、何かを信頼せずにはいられない。本稿の最後に、医者と患者との間の信頼が破砕したらどうなるのかについて、医者・患者双方の視点から触れておくことにする。
まず、患者側については、宮野真生子/磯野真穂『急に具合が悪くなる』(晶文社、2019年)が良い視点を提供してくれる。本書は末期がん闘病中の哲学者・宮野真生子(2019年7月22日逝去)とその伴走者を務める人類学者・磯野真穂との往復書簡20通をまとめたもので、「お大事に」という言葉が容易に使えない末期医療の現実を鋭く切り取った著作だ。磯野はがん患者における「信頼」について、次のように述べている。
我々は自分が健康なとき、ニセ医学やカルトに帰依する人を合理的な選択ができていない可哀想な人だと考えがちだが、磯野の指摘はこうした考えが独善的であることに気づかせてくれる。「よくなるはずだ」という希望を持てず、医者への「信頼」が破砕した結果、代替医療への「信仰」へと惹きつけられてしまう人もいるのだ。信頼が破砕する一因として、磯野は現代医療における「確率論を装った〈弱い〉運命論」(同書38頁)を挙げている。磯野はエビデンス第一主義に対しても、次のような疑問を投げかけている。
宮野も末期がんの当事者として、「選ぶの大変、決めるの疲れる」(同書49頁)という心情を吐露している。エビデンス第一主義とインフォームド・コンセントの徹底により、いわば「治療疲れ」に陥る患者の思いが、次のように語られている。
次に、医者側については、テクノクラート意識の亢進による信頼関係の破砕/放棄が問題となる。ドイツ思想史家の藤崎剛人は2020年7月26日の論説記事の中で、厚労省技官上がりの医者によるALS(筋萎縮性側索硬化症)患者の嘱託殺人事件に言及し、有能/無能で人間を二分する世界観がテクノクラート意識や技術至上主義を助長しているとして、自己研鑽を美徳とする価値観に警鐘を鳴らしている。ここでいうテクノクラート意識とは、本来は技術畑の官僚に特有の、技術家の指導によって政策決定や社会組織の管理・運営を行うべきとする思想が、偽の階級意識として一般人にも共有されたものを指す。
家電製品が壊れた場合、我々は次の二択を迫られる。修理して再び使えるようにするか、それとも処分して新しい製品を購入するか。そして、仮に修理不能ならばお払い箱にするしかない。人間と道具(モノ)の間に信頼関係は成立しないので、この二択自体に問題はない。では、この二択を人間関係にも持ち込んだらどうなるか。そうだ、藤崎の指摘する「有能/無能世界観」が生まれ、生産性のない人間は処分せよという恐るべき発想が首をもたげてくるのだ。件の医者はこうした優生思想のようなイデオロギーに染まり、難病患者を実際に手にかけた。しかし、件の医者を異常者として糾弾するだけでは、問題の根本的な解決には繋がらないのではないだろうか。件の医者は患者の命を奪う前段として、患者との信頼関係の構築をかなぐり捨てたのであるから、信頼・希望・愛という要素を軽視する医者はいつだって同じ穴の狢になりうると言わなければならない。
医者という職業は技術職ではない。医者という職業の特質は患者の快復という結果ではなく、自然言語による意思疎通の過程にある。結果だけを追求する医者はたやすく倫理を見失い、テクノクラート意識に膝を屈して、訳知り顔で平時の「トリアージ」を主張するようになるだろう。しかし、医者とはそんなちゃちなものではないはずだ。今一度、信頼・希望・愛という古典的な図式に立ち返り、医者側も患者側も信頼の重要性を再認識すべきではないだろうか。
おわりに
我々はどうあっても信頼から逃れられず、何かを信頼せずにはいられない。少し前に持て囃されたビットコインという暗号通貨は、仲介や法規制がない状態で数理的に「分散された信頼」(レイチェル・ボッツマン)を成立させるという壮大な社会実験の産物であった。そこで明らかになったのは、信頼を基礎とした取引関係を想定しない場合、プルーフ・オブ・ワークのためだけに新興国に匹敵する膨大な電力が必要となるということだった。「分散された信頼」によって技術的に信頼の問題を突破できるという考えは、希少資源の浪費という壁にぶつかった。要するに「信頼なき信頼」は詭弁に過ぎないのであった。
信頼は古くて新しい問題であり続けている。医者に話を戻すと、古典的な医者批判として、モリエールの『病は気から』(Le Malade imaginaire; 1673年初演)が顧みられるべきである。モリエールはこの喜劇の中で、医者・薬剤師・法律家が学識を悪用して、自分を病気だと思い込む主人公アルガンを食い物にする様子を諧謔たっぷりに描いている。モリエールの喜劇が西洋の人文主義の伝統からして基本中の基本とされてきたことは、例えばP. F. ドラッカーの記述からも窺われる。ドラッカーは自伝的著作『傍観者の時代』(原題はAdventures of a Bystander)の中でフロイト批判を行っているが、それに寄せてモリエールの『病は気から』(上田惇生訳では『気の病い』)に言及している。
ドラッカーの記述は伝聞ながらも、世紀末ウィーンの医者がモリエールを批判的思考の素材としていたことを伝えており、医学と人文主義の距離がそれほど遠くないことを示している。本邦にはこのような人文主義の伝統が存在しないため、我々は信頼の破砕に抗うために、別の道具立てを用意しなければならない。そのための素材の一つとして、『モンスター娘のお医者さん』を利用してはどうだろうか。本作は信頼・希望・愛の美しい有り様を描き出し、医者にやれることはまだまだあるぞ、医者という職業はこんなところでは終わらない、というエコーを響かせている。この素材をどう加工するかという課題が我々には残されているが、ここから先の議論は本稿の埒外であろう。第1話でグレンが語った「僕たちは少しだけ口うるさい医者になってもいいんじゃないかな」という青臭い言葉――それが次のステップの端緒となるのかもしれない。
参考文献(2022年1月12日追記)
宮野真生子/磯野真穂『急に具合が悪くなる』晶文社、2019年。
清水正照訳『アウグスティヌス著作集 第一巻』第3版、教文館、1992年(「ソリロキア(独白)」を収録)。
P. F. ドラッカー(上田惇生訳)『ドラッカー名著集12 傍観者の時代』ダイヤモンド社、2008年。
Chris Frith, Making up the Mind: How the Brain Creates our Mental World, Malden MA 2007.
(邦訳:クリス・フリス(大堀壽夫訳)『心をつくる:脳が生みだす心の世界』岩波書店、2009年)
モリエール(鈴木力衛訳)『病は気から』岩波文庫、1970年。