「構えさせる声優」とは何の謂いか:豊崎愛生の初期キャリアから三作品を振り返って(旧稿改題)

※本稿の「はじめに」及び「おわりに」は全文書き下ろしである。

はじめに:『魔王学院の不適合者』評の付録として

形式は恣意の不倶戴天の敵であり、自由の双子の姉妹である*。
――ルードルフ・フォン・イェーリング『各発展段階におけるローマ法の精神』
*Rudolf von Jhering, Geist des römischen Rechts auf den verschiedenen Stufen seiner Entwicklung, Teil 2, Abteilung 2, Leipzig 1858, S. 497.

 私は、先日投稿したTVアニメ『魔王学院の不適合者』評の中で、主人公の母親役を演じた豊崎愛生について「構えさせる声優」という表現を用いた。

 本来であれば、この表現がどういう意味なのか文中で明らかにすべきだったが、論旨から外れた傍論が長くなることを避けるため、特に説明せずに用いる判断をした。「構えさせる声優」という表現の初出は、私が2012年8月に同人誌に掲載したTVアニメ『めだかボックス』評なのだが、この表現に結実するまでには2年近くにわたる心理的格闘があった。
 私が上京して本格的に深夜アニメを見始めたのは2009年4月のことで、ちょうどTVアニメ『けいおん!』第1期の放送が始まったタイミングだった。私のアニメ視聴遍歴は、豊崎愛生が大人気声優への階梯を一段ずつ上っていく過程とパラレルに進行していった。彼女が声優として、スフィアの一員として活動を重ねる中で、多少なりとも深夜アニメを見る者であれば、彼女を知らぬ者などいなくなった。同時に、狂信的なファンの行動が目につくようになり、豊崎に対して気軽に言及しにくい空気が醸成されていった(特定記録郵便の送達事件は2011年10月)。
 私は豊崎のファンではないので(とはいえ、スフィアのライブには年に1~2回は参加していた)、凄まじい熱量を豊崎に注いでいた人たちとは距離をとるようにしていた。しかし、豊崎を声優として評価しないわけにはいかないことから、私の中で2年近くにわたる心理的格闘が繰り広げられることになった。今をときめく大人気声優をファンならぬ立場からどのように論評すればよいのか。正面から褒めちぎるのではファンと大差ないし、斜に構えるのでは的確に評価できないおそれがある――こうした心理的格闘へと誘うという意味で、「構えさせる声優」という表現が生まれたのだった。
 本稿は、私が過去に執筆した『そらのおとしものf』(2010年10月期)、『べるぜバブ』(2011年1月~2012年3月)、『めだかボックス』(2012年4月期)に関する声優アニメリヴューを一部修正して再掲し、「構えさせる声優」だった頃の豊崎愛生を振り返るものである。8~10年前の文章なので、拙く読みにくい部分が多いが、なるべく当時の表現や勢いを尊重し、修正は最小限にとどめている。本稿は豊崎の初期キャリアを包括的に論じるものではなく、極めて不十分な記述にとどまっているが、同時代に豊崎と対峙した一つのサンプルとして示す意義はあるだろうと考え、公開することを決めた。前掲の『魔王学院の不適合者』評の付録としてお読みいただければ幸いである。

1. そらのおとしものf(2010年10月期)

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(この節は2010年12月に同人誌に掲載した劇評を一部修正したものである。)
 第二世代エンジェロイド「カオス」。それは「黙示録編」の明瞭なる標識であると同時に、一連のプロセスの中で愛情表現の形式に風穴を開ける一大プロジェクトだ。確かにカオスを「狂気」のエンジェロイドと位置付け、「狂気」に伴う浮遊感や徘徊感の淵源を豊崎愛生その人・その声に求めることは直感的には適当に思えるが、こうした「狂気」はエンジェロイドプロパーの愛情表現に他ならないのであり、豊崎プロパーの問題は共通項の考察の最後に現れることに注意されたい。
 豊崎の駄々漏れの愛情表現芸は『百花繚乱 サムライガールズ』(2010年10月期)の直江兼続において一つの頂点を迎えたが、カオスの「狂気」もこの系統に属する芸であって、断じて新境地などではない。カオスが「愛が知りたい」と懇願し、絶叫する相手であるところの第一世代も、誰一人として愛を知らないのだ。すなわち、本質的に第一世代もカオスと同じ「愛情概念の欠缺」状態にある。この欠缺は断じて「狂気」などではない。イカロス=早見沙織の「動力炉が痛い(これが愛なの?)」という、ニンフ=野水伊織の「甘く見ないでよね(これが愛でいいのかしら?)」という、アストレア=福原香織の「よく分かんないけど(愛なんてわっかんないわよー!)」という吐露の演技が提示されるその瞬間こそがクリティカルに、「狂気」という豊崎評が短絡的に過ぎることを暴く。エンジェロイドが未知の愛情概念にまさに触れようとする際の、極度に緊張せしめられた心の態様を再現しようとして、激情が三人の中を疾風怒濤駆け巡り、演技一つに圧縮されて射出される瞬間、その恐るべき初速と加速度を我々は身をもって知ることになる。
 ホットな若手三人は感情を励起状態に至らしめる。その爆発的なエネルギー放出が、豊崎の「狂気」という過剰評価を剥がし、単なる淡白な感情の漏らしとして相対化する。エンジェロイドプロパーの共通項を前提とした時に、一方で猛烈な熱放出が、他方で持続する漏洩が見られるのだ。ここで豊崎が見せる漏洩は、エンジェロイドプロパーの表現形式におけるヴァリエーションの一つに過ぎない。豊崎は流麗の申し子だが、すっと「ド真ん中」を流出させる危うさを孕んでいるのは明白で、カオスが第一世代の熱気に押し負けたのは、豊崎の危うさの顕現に他ならないのだ。劇場版へと続くその途で、彼女はフォルティッシモを響かせてくれるだろうか。カオティックな激情が劇場で吹き荒れ、豊崎プロパーのプロジェクト・カオスが完遂された時、我々は豊崎愛生の大いなるブレイクスルーを見ることになるだろう。

2. べるぜバブ(2011年1月~2012年3月)

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(この節は2011年8月に同人誌に掲載した劇評を一部修正したものである。)
 豊崎愛生について、「可能性」という言葉を用いるだけで語り部の目の節穴が暴露される、とまでは言えないにしても、少なくとも豊崎を一面的に捉えるところに安住していた印象は拭えない。だが本稿では、意識的に「可能性」という言葉を用いたい。というのは、『そらのおとしものf』の時点に比べ、豊崎は「危うさ」を克服する契機に恵まれたからだ。豊崎にとって必要だったのは、恣意を抑制する枠であり、そして彼女は十二分にその枠内で「ド真ん中」に強勢を置くことができる声優であった。
 邦枝葵に対して、「ついに聴かれた豊崎の地声」「徳島リポーター時代の再来」といった斜に構えたアオリを敢えて付与せずとも、多くの視聴者は「これが豊崎か?」と視界を開かれた気になったのではないか。我々が過去の出演作という文脈/呪縛から逃れる術はただ一つ、本作で豊崎愛生に初めて出逢うことだ。しかし、広い視聴者層を獲得した『けいおん!』のせいで、豊崎のイメージは固着してしまったきらいがある。それはまるで、かつて平野綾が涼宮ハルヒに囚われたときのようだった。だからこそ豊崎の中立的評価は困難を極めるわけで、『べるぜバブ』で豊崎を知った者を「幸せ者」と羨む気持ちは筆者にも分からないではない。
 だが逆に、平沢唯イメージの固着ゆえに、邦枝葵がよく聴こえるようになったのも事実だろう。彼女は、単調なヤンキー抗争にラブコメの可能性という一石を投じた。カカア天下のヒルダ=伊藤静には、高校の内側から物語全体に変容を迫る力は残念ながらない。骨の髄まで乙女の葵をレディースの世界に放り込むことで、豊崎は二つの役柄を往復するような自由な振る舞いを許された。しかし、その自由が恣意に向かうことはない。というのも、高垣彩陽悠木碧を越えて抗争に関与することや、ベル坊=沢城みゆきを越えて感情を爆発させることまでは許されないからだ。一つの属性内でのアドリブの許可は恣意を抑制できない。「自由」の名の下に、針の穴を通すようなコントロールを要求されるという雁字搦めの中にこそ、却って豊崎の「自由」が、「可能性」がある。

3. めだかボックス(2012年4月期)

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(この節は2012年8月に同人誌に掲載した劇評を一部修正したものである。)
 豊崎愛生は「構えさせる」声優だ。豊崎を聴いた者の反応は、典型的には二つに分かれる。第一は「いつもの」豊崎だと思考停止する反応であり、第二は「当然の芸当」だと悪く言えば通ぶる反応である。以下、それぞれの反応について見ていくことにしよう。
 第一の反応におけるキーワードは「定形の演じ方」である。この表現は思考停止――いや、知覚停止と言ったほうが良いか――でしかない。筆者は『ケンコー全裸系水泳部 ウミショー』(2007年7月期)ではなく『けいおん!』で豊崎を知ったので、世に言う豊崎の「定形」は平沢唯に基礎が置かれているのだろうと推測するほかないわけだが、いずれにせよ豊崎の華やかなスターティング・ブロックが『けいおん!』であることは疑いないのであって、その後の豊崎評を根本的にねじ曲げた点でそれが悪名高いのは言うまでもない。豊崎愛生は平沢唯ではない。あなた方は豊崎に唯であってほしいのかと問い質したくなるほどに、例えば能登麻美子・釘宮理恵・金田朋子と同様に、特徴的な声の持ち主にとっての宿命なのだと諦念たっぷりに語ることを非難したくなるほどに、「あの時」の豊崎を冷凍保存しようとする多くの試みは腹に据えかねるものがある。『けいおん!』は終わった。保存精子を用いた人工生殖・死後懐胎によって生まれた子が、精子の出処たる男性と実親子関係に立つというのか。筆者はこれまでも声優の演技を「テンプレ」と評することを糾弾してきたし、『べるぜバブ』リヴュー(前掲)の中では豊崎の「可能性」についてかなり神経質なコメントをした。豊崎の「定形」をどこかに措定し、そこに安住するだけでは甘口もいいところだ。
 そうして第二の反応が現れる。『聖痕のクェイサー』(2010年1月期・4月期)について、ある友人は次のように言っていた。「終盤、“声変わり”する豊崎愛生を褒め称える声がTwitterやなんかを見ていて散見されたのだけれど、や、この作品に出られるくらいの“名”のある声優さんなんだから、あれくらいやれて当然ですよといっておかないとかえって失礼というものですよ」。豊崎を常に突き放し、相対化・再評価をし続ければ、このような斜に構えた姿勢になっていくのも自明の理かもしれない。声ヲタ根性ここに窮まれり、といったところか。しかし、ここで満足していると、単なる好事家と表面上区別が付かないということになりかねない。魂の叫びを綴るのが声ヲタの使命なのだとすれば、自分の素直な感動を押し殺してまで通ぶることには何の意味もなかろう。大往生には程遠い、立ち往生でしかない。
 勝手な話だが、こうして我々は豊崎に翻弄され続け、揺さぶられ続けてきた。シロウトさんにもディレッタントにもなりたくないがゆえに、豊崎評となるとどうしても構えてしまう。本作『めだかボックス』は、そんな我々にとっての福音だ。西尾維新の日本語ならぬ日本語を声優に喋らせるという試みは『化物語』(2009年7月期)、『刀語』(2010年1月~12月)、『偽物語』(2012年1月期)と続いてきた。それは西尾維新の紡ぐ日本語が音声化されるだけで「声優のための小品」が出来上がってしまう、という一種の甘えの象徴であった。本作は違う。西尾維新作品のポテンシャルを振り切った功績者は、そう、豊崎愛生その人だったのである。
 豊崎はとにかくひたすら喋り続けなければならない。伝え続けなければならない。一年生にして生徒会長、「上から目線性善説」の才色兼備のお嬢様、黒神めだかを説得的に受肉させるためには、パワフル、アクティヴ等々の肯定語を全て費やしても足らぬほどの、熱気が必要だからだ。しかし、それは姉御肌とは違う。女を捨てることは許されないし、何より品性を保つことが求められる。必死に人間の真似事をして、「私を認めてください、仲間に入れてください」と懇願するバケモノではないか、と朴璐美演じる雲仙冥利がシニカルに笑ったのは一面の真実であり、黒神めだかはあまりに精密なコントロール――まさに「人間業ではない」――を要求される役どころである。それなのに、である。冒頭で述べた「構えさせる」ということに、徳島時代の低い声のトーンや音楽家との恋愛問題、そして何より今をときめくスフィアの一員であるということが加わり、「本当の彼女はどこにあるのだろう」という永遠の問いを伴う豊崎だからこそ、なのかもしれないが、何ともあっさりと演じきってしまったものである。新番組予告の段階で「声のトーンが辛そう」というコメントが散見されたことからも分かるように、豊崎がここまで叫べるということは、ほとんど意識されてこなかったのだろう。物凄く近くにいるようでいて捕まえられない豊崎が、めだかと二重写しに見えてしまったとしても、誰も非難などするまい。
 それだけに、本作では光ではなく影を担当する小野友樹(人吉善吉 役)、意識的に薄っぺらにしたところが没個性的になっただけという感じの浪川大輔(阿久根高貴 役)、花澤香菜の代替品的なところに落ち着いてしまった茅野愛衣(喜界島もがな 役)の三人が、「やり過ぎだ」と暴走した豊崎を全身全霊で止めるシーンは鳥肌モノだ。アリアドネでも止められなかった豊崎を、三人がかりで押さえ込むという展開に、分かたれた二つの豊崎への反応が収斂していくさまを見ることができたのは、望外の喜びであった。豊崎不在の最終回、三人は確かに「めだか」流の生徒会を執行してみせた。だが、そこには何もなかった。意図的に豊崎が排除されることで、豊崎とめだかの二重写しの魔法はかえって強まった。わざわざこのようなアニメオリジナルの幕引きが用意されたために、最終回脚本担当の西尾維新が狙ったか否かはともあれ、豊崎が本作に開けた風穴が強烈に印象付けられる結果となった。この穴を塞げるのは、無論豊崎しかいない。というわけで、物語は第二期『めだかボックス アブノーマル』(2012年10月期)へ続く。

おわりに:距離感を保つということについて

 本稿をまとめながら、ふと思い出した言葉がある。私は2018年1月から2019年4月にかけて、独文学者の臼井隆一郎先生(東京大学名誉教授)が主催する勉強会に出席の機会をいただいた。勉強会(及び懇親会)の中で、臼井先生は印象に残る言葉を幾度もかけてくださったが、その中でも特に忘れ難い言葉がある。それは「いいから書けよ」という言葉だ。「いいから書けよ。今は準備が出来てないので後で書きますと言って、書けたためしはない。後で書こうと思っていたら、一生書かずに終わる。思い切って書いたものしか後には残らないんですよ」。そう、臼井先生は仰っていた。
 臼井先生の言葉を、当時の私はそれほど真剣に捉えていなかったように思うが、最近とみにこの言葉の重さを実感するようになった。私が声優アニメリヴューを書き始めてから11年が経過しようとしているが、この間に書き連ねた文章は大半が同人誌に寄稿したものである。同人誌には即売会というゴールがあるため、印刷所への入稿締切までに文章を書き上げなければならないというプレッシャーが伴う。限られた時間の中で、その時々の勉強成果や心理的格闘の所産を惜しみなく文章に注ぎ込むという経験は、今思えば「いいから書けよ」の精神を体現したものであったように思う。そうして後に残った文章によって、現在の自分が支えられているのを、コロナ禍で同人誌即売会という発表の場が奪われた今こそ、強く感じるようになった。
 これは本稿の主題である豊崎愛生に限った話ではないが、特定の声優を評価する際には、常に距離感(sense of distance)が求められる。声優は音声を発するマシーンではないので、「演技」なるものだけを析出して吟味しようとすると、声優自身の主体性を見失うことになる。しかし他方で、声優との間に相互主観を成立させるのは一般的には困難であるから、我々は出演作品・インタビュー記事・出演イベントでの発言といった断片から推論(または妄想)せざるを得ない。従って、我々は声優の内奥を理解したつもりになる傲慢に抗うとともに、声優の引力の及ばない安全地帯から声優を客体化する欲望に打ち克たなければならない。ある種の人間にとって、声優が誘蛾灯のように機能していることは否定できない事実であるが、煩悩を滅却して「距離感」を保つという精神の緊張なしに、批評は成立しない。そして、批評が不在の場では、表現者も鑑賞者も不幸である。
 こうして考えてみると、「構えさせる声優」という表現は、一見すると豊崎愛生を形容するようでいて、その実心理的格闘を続ける自分自身を省察する、再帰的な表現であったことになる。それは8~10年前の「距離感」を端的に言い表したものであった。「いいから書けよ」の精神で書き残した文章が何を意味するのか、時間の経過が明らかにしてくれることもあるのだろう。そのように思えた振り返りの機会であった。

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