「見えてない部分をいかに深めていくかが大切」という恩師の言葉
私は大学時代、社会学部でメディア学を専攻していた。
どうしても入りたかったゼミは、“実践的文章論”がテーマ。課題を提出し無事選ばれ入ることができ、非常に嬉しかったのを今でも覚えている。
先生がとにかく魅力的な人だった。
(1年ほどまえにも先生について書いた↓)
元新聞記者でエッセイスト、大学や文章講座で講師などもしている。誰よりも無邪気で精力的、大人なのに子どもみたいな先生のことをゼミ生みんな、大好きだったと思う。
毎週課題が出されて、そのテーマに基づいて必要であれば取材に行き、自分なりの文章を書き上げていた。それを先生が添削してくれる。お互いの文章を読み、みんなでそれについて話をしたりする。振り返るとキラキラ眩しい、充実した時間だった。
先生の添削はいつも肯定的。“てにをは”など構成や流れのチェックはしてくれるが、大枠の書き方についての否定は決してしない。
“文章を書くテクニック”のようなことを教えてもらった記憶はあまりない。
自分で足を運び、自分の目で見て、自分の耳で聞く。それを自分の言葉でまとめる。とにかく実践に重きが置かれていた。
先生がいつもおっしゃっていて、今も覚えていることがある。
「取材文章を氷山に例えるとする。
見えている部分(一角)が書き上げる文章だとして、海の下には見えないけれど大きな氷山がある。
見えていない海の中にある部分が大きければ大きいほど、良い文章になるんよ」
いつもそう教えてくれていた。
五大紙で記者をしていた経験に基づき話してくれるその教えは、重みがあり心に響いた。
見えている部分をどうやって取り繕うかを考えるのではなく、見えてない部分をいかに深めるかということ。
これがより良い(取材)文章を書くために、1番大切。
仕事で取材文章を書くことがある。
「めっちゃ良い話がたくさん聞けたな~。トピックがありすぎて、どれを書いたら良いかわからんくらいやわ」
そんな取材を経て書いた文章は、確かに濃度が高く良いものになる。
「とりあえず、ポイントだけ抑えて聞いて、それで良いかな」
時間がなくて文章量も少ない場合、そんな打ち合わせになることもある。そんな時は、もちろん深みは出ない。(文章量もあり、深みなんて出せないこともあるんだけど)
仕事への慣れからそんな風に流してしまうことも正直あるので、反省。
先生の教えは、文章だけに限らないような気がしている。
同じ言葉を話していても、話す人によって説得力がまるで違う。そんな風に感じたことはないだろうか。
経験を積んだ人の言葉には魂が宿っている。重みがある。
経験の浅い人が真似をして同じ言葉を話したとしても、響きがまるで違う。
結局は何をするにせよ、その対象に対して真摯に向き合うこと。自分だけの経験をちゃんと積み重ねること。
誰かが考えたHOW TOに飛びつくのも一案だとは思うのだが、それより前にここをしっかり理解しておくことが何より大切だと思う。
noteもそうじゃないだろうか。自分の経験を自分の言葉で綴る。それこそが他の誰にも書けない文章になるんじゃないかな。って知らんけど。誰やねん。いや、noteは自由な場なので、各自が好きに書くのが1番(急に投げやり)。
けど、こうして思考を巡らせながらnoteを書くこと。それ自体は自分自身を深めることへと繋がっていっているように感じている。
人生は誰一人として同じものなんてない。
その人にしかない深みがあって、その人にしか紡げない言葉がある。見えてなかった、その深みに触れた時に心が動く。私は人間のそういう部分に惹かれる。そして、そんな文章が読みたいし、できれば書きたい。
多感な大学時代に、心から素敵だと思える先生に教えてもらえたことは、この上ない幸運だっだなぁと今改めて思う。卒業してからもゼミ生数人とお家にお邪魔したりしていたのだが、最近はめっきり。久々に会いに行きたいなぁ。来年こそは絶対会いに行きたいな。先生の話をたくさん聞きたい。