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マジョリティだったマイノリティの私が見る世界
「私はいい人。差別なんてしたことないし、誰にだって優しいよ。」
「皆が優しくなれば差別なんてなくなるのに。」
「こんなに良い人しかいない国に差別なんかあるわけない。」
差別について話し合うとき、よくこのような意見を見かけます。
「私は、いい人で、差別なんて関係ないと。」
しかし、本当にそうでしょうか。
「人は自身のマジョリティ性について無知でいることはできるけれど、自分のマイノリティ性について無視できない」と言うように、差別の話をするとき、あまりにも私たちは自分のマジョリティ性に無自覚で、マジョリティから見た視点に頼ってしまいがちです。しかし、もしある日、マジョリティだと思っていた自分がマイノリティだと気が付いたら?人は同じように思えるのでしょうか。
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私の友達は、多くが恋をして、恋人を作っていた。そんな周りに囲まれて、ご多分に洩れず私も、異性に恋をして、彼氏をつくって、青春を謳歌した。それが「普通」だと思っていたし、たとえそこに違和感があったとしても、そうしないといけないだろう。そう思っていた。そんな私が自分のマイノリティ性にはっきりと気が付いたのは16の時だった。
16歳のとき、私はある女性に恋をした。女子高であったため、男性の教員に恋をしたり、卒業後に結婚をしたりする生徒はよくいたけれど、同性に恋をする生徒は今まで聞いたことがなかった。同性に恋するなんておかしい。聖書にもよくないことだと書いてある。自分が気持ち悪い。自分の中に内在化していた偏見が自分に対して向いた瞬間だった。戸惑った私は、自分に嘘をつくことにした。私は、ストレートで、彼女に魅かれてなんていないのだと。一時的な気の迷いで、大学で共学に戻ればストレートに戻れると。しかし、嘘をつき続けるのは意外と難しい。嘘をつけばつくほど、自分がマジョリティではなくなってしまったのだと自覚させられた。
それからというもの、マジョリティで生活していた時とは違う体験をしたり、物事に対して違う感情を抱くようになった。まず、友人に恋バナを振られるのが苦痛になった。ヘテロセクシャルの時は、あんなにも楽しんでいた恋バナが、旅行先では眠いふりをしてみんなより先に寝ようとするほど嫌になったのだ。特に、「好きな人いるの?」と聞かれるのが怖くなった。もし、こう聞かれたら、私は嘘をつくか、カミングアウトするかの二択を強いられることになる。どちらに転んでも、よほど相手が理解者でない限り辛いことにはかわりない。
また、ヘテロセクシャルの時には、笑えていた冗談が笑えなくなった。たいていの冗談は、彼氏がいないと答えると、じゃあ彼女はいるのと返してくるようなものだった。「冗談なんて些細なこと。」そう思って無視しようにも、日々のなかでセクシャリティにかかわるような冗談は意外と多く、ただストレスだけが溜まっていった。
冗談に関しては様々な嫌な思いをしたけれど、その中でも今でも忘れられない出来事がある。高校三年生の歴史の時間、皆から人気で私も好きだった世界史の先生が、ある風刺画を持ってきた。スターリンとヒトラーがドレスとタキシードを着て、結婚式をしている絵だった。絵を見た瞬間クラスがどっと沸いた。その様子を見て先生もうれしそうだった。
「この絵は、こっちがヒトラーで、こっちがスターリンですよね。ウェディングドレスとタキシードを着ているから、ね。そういうことですよ。」
それを聞いてまたクラスが盛り上がった。その瞬間、教室から消えてしまえたらどれほどよかっただろう。体が火を噴くように熱くなるのを感じた。やはり、同性を好きになることはおかしいのだと。私も同性が好きだとばれてしまったら、同じように笑われてしまうのだろう。同性愛は、あのヒトラーとスターリンの揶揄で使われるような忌まわしいことなのだと。様々な思いが頭の中で駆け巡った。皆の笑う声が頭の中で響く。
しかし、もしあの時、ヘテロセクシャルであったなら、私は皆と同じように笑っていたのだろうか。
女性を好きになったことに加えて、自分の好きが皆が抱くような性的な気持ちを含まないことに気がついた。そうなると、さらに自分の将来が見えなくなった。
—将来は優しい男性と結婚して、子供を持つ—
多くの人が思い描く未来で、私も普通に生きていればかなえられることだと思っていた。しかし、アセクシャルの私は、その夢をかなえられない可能性の方が高いことを知った。女性と結婚はできないし、他人と性的関係を持たなければ子供はできない。私は「普通の人」が何気なくかなえていることのスタートラインにも立てない。それが、その当時は絶望的で、何よりも悔しかった。
それから数年たって大学生になった。大学に入ってから、生物学的に同性のパートナーができた。体の関係もないし、相手は恋愛感情を持っていないけれど、私は相手が大好きだし、お互いを尊重しあえるいい関係だと思っている。けれど、未だにパートナーと付き合っていることは、同じ学科の知り合いには話せていない。一度、それとなく他人に性的に興味がないことを伝えたら「それは、お前ヤバいだろ。」と言われてしまったから。
パートナーと付き合いだしてから、ふと人にコイビトの有無を聞かれることが増えた。そんなとき私は、
「うん、パートナーがいるよ。」
と答える。けれど、相手の中では、自然と「彼氏」がいると変換されてしまう。皆の中では、異性に恋をすることがフツウだから。
「私は、差別なんてしたことないし、優しくていい人だよ。」けれど、その「優しさ」や「善悪」は誰から見たものでしょうか。
冒頭で、
あまりにも私たちは自分のマジョリティ性に無自覚で、マジョリティから見た視点に頼ってしまいがちです。
と書きました。私たちが物事の善悪の判断をする時、人の優しさを判断する時、私たちはあまりにも自分のマジョリティ性に頼ってしまいがちです。
だから、たとえあなたがどんなに「良い人」であっても、差別から「遠ざかって」いても、あなたが無知で「良い人」で居続ける限り、誰かの体験を否定し続ける限り、そこには抑圧されて、傷つく誰かがいます。
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ふとインスタグラムを開いていると、中学時代の友達のストーリーが流れてきた。
「ゲイなら、『普通』に戻ってくださいwww」
20歳になった自分へ向けた彼の手紙にはそう書かれていた。ふと体がこわばるのを感じた。けれど、同時に中学時代の自分が、彼をそう揶揄う輪の中に入っていたことを思い出した。あの時自分も誰かを傷つけてしまっていたのかと思うと背筋がぞっとした。
「私はいい人。差別なんてしたことないし、誰にだって優しいよ。」
そんな「優しい」あなたへ向けて。
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