“Freedom is not slavery”—LGBTQに対する先日の発言について考える
先日から、政治家たちのある発言が問題視されている。LGBTQに関心のある人なら、もうすでに目にしているだろう。
あまりにもひどい言葉であるから、自分のブログには書かない。書くのも憂鬱だ。気になる人は、新聞でも、テレビでも、twitterでも何かしらで調べてもらえたらと思う。
人間の存在意義を種の保存に求める危険性
さて、前置きはこれくらいにして、今日の本題に入ろう。人間の一番の目的が種の保存であるならば、LGBTQだけでなく、今いる様々な人々を否定することになる。不妊の夫婦や、理由があって子供を産まない人、子育てを終えた人、ヘテロセクシャルでも結婚をしていない人。これらの人の存在意義を否定してしまうからだ。
本当に、それが目的であるなら、日本は 『ギヴァー』(The Giver)や『侍女の物語』(The Handmaid's Tale) のような世界にすればいい。避妊器具もいらないし、高等教育も必要ないだろう。(もちろん反対だが。)それをもせず、文化的で豊かな生活を営んでいる人たちから、LGBTQの話の時だけこの発言が出てくるのは解せない。
それに、支援の是非が、その人が「役に立つ」かどうか決められるのはなんとも恐ろしい世界であろうか。人間は誰しも人権を持っているのに、ある社会が定義する曖昧な「モラル」によって、その人の存在の是非が問われるなら、まさに、「自由は隷従なり」(“Freedom is slavery”)とでも言ったところであろう。
LGBTQと少子化
多分、先日問題になった発言の根底には、少子化の問題があるのだと思う。「種の保存」なんて言葉があげられているのだから。
今回に限らず、LGBTQがやり玉に挙げられるとき、必ずと言っていいほど少子化や繁殖の問題をあげる人が出てくる。足立区の議員や数年前の女性議員の発言も記憶に新しいだろう。
けれど、ここで一つ聞きたい。人間の目的が1万歩譲って、種の保存や子孫を残すことだとしても、LGBTQがそこにいることの何が問題になるのだろう。だって、私たちはセクシャル「マイノリティ」と呼ばれていることからも分かるように、数の上で小数なのだし、法で認められたからといって、個人の性的指向が変わることなんてないのだから。
もし、LGBTQに寛容な社会になったからといって、ヘテロセクシャルの人が、「やった!明日からゲイになるぞ!」なんて言う思考に至るのだろうか?
思わないだろう。人のセクシャリティは、あくまで個人の意図によるものではなく、そうあるものだからだ。現在自認している人もそうだ。法で認められていようがいまいが、ヘテロセクシャルになることなんてできない。流動性はあるにしても、利益•不利益で個人のセクシャリティが変わることなどない。
それでも、LGBTQが法で認められたら、数が増えて少子化が進むと思っている人は、もしかして隠れゲイなんd…
少子化の問題を解決するのはマジョリティ
おふざけは置いておいて、出生率の低下が問題になっているのは知っている。このまま低下し続ければ、世界が今のようには回らなくなるかもしれないし、解決すべき重要な問題だろう。
けれど、それを解決するのは、マイノリティ側の問題でなく、マジョリティ側の責任だ。だって、私たちはセクシャル「マイノリティ」と呼ばれていることからも分かるように小数なのだし、数の多いマジョリティに働きかける方が確実だから。
頑張れば、同性間でも子供を持つことはできるけれど、現時点ではヘテロセクシャルのカップルよりも、余分に労力が必要だったり、代理母などには倫理的な問題があったりする。そう考えれば、マジョリティ側に何らかの形で働きかける方が断然効率がいい。
子供を育てるのに優しくない社会であったり、不妊治療や出産の費用が高かったりと、子供を持ちたいと思う人たちのために解決するべきことがまだまだあるはずだ。それを解決しようともせず、マイノリティに理由を見つけ出そうとするのは、政治家たちが自分たちの職務怠慢をマイノリティに責任転嫁してるにすぎない。
まとめ
仮に私たちが、子孫を残さない「生産性」のない人たちだったとして、それを支援の是非とすることが何を意味するのか考えてみて欲しい。
LGBTQが法的に認められたからといって、マジョリティ側は何も変わることはない。昨日と同じ日々がただただ続くだけだし、変わらない幸せを噛み締めて、めざましく変わりゆく世界に切なさを感じるだけだ。
子供を持てないことは、当事者である私たちが1番よくわかっている。(私はアセクシャルなので、正確には持ちたいとも思わないけれど…)それなのに、子供を持たないことに何度も言及するのは、足がない人に歩けというくらい残酷だし、ましてやそれを少子化の理由にあげるのはナンセンスだということに早く気がついた方がいい。
法的に認められようが、認められまいが、私たちはここにいる。ただ、それだけの話だ。