随筆(2021/5/6):対人欲求は、基本エゴイスティックなものである(2.対人欲求は、基本エゴイスティックなものであり、対人倫理がそのままの形でビルトインされてなどいない)
2.対人欲求は、基本エゴイスティックなものであり、対人倫理がそのままの形でビルトインされてなどいない
2.2.欲望は、基本エゴイスティックなものである
そもそも、欲望というものは、
「他人と分かたれた自分のものである」
という意味でも、
「他人に否定されてもなおもそこに在るものである」
という意味でも、まずはエゴイスティック(自己中心的)なものだ。
2.3.はじまりとしての気質(衝動・忌避・愛着・固執)
欲望の核心は、その人の気質による、
何らかの衝動(したい)や、
忌避(したくない)や、
愛着(放したくないand離れたくない)や、
それらへの固執(とにかく何度でもしたいorとにかくしたくないorとにかく放したくないorとにかく離れたくない)にある。
これらは、やらなければor避けなければ、脳がむずむずして、痒く、痛く、苦しくなっていくものだ。
この苦痛は自分のものであり、我慢や遠慮をすれば軽減されはするが、なくなりはしない。
我慢や遠慮が長期にわたった場合、逆に苦痛が増大することすらある。
他人と分断された身体と脳においては、衝動・忌避・愛着・固執と、それを我慢・遠慮することによる苦痛は、まずは「あるもの」だ。
2.4.庇護時の甘えと、それが綻びた時のわがまま
そういうのが前に出て来る頃は、ふつうは養育者に庇護されているので、それは「甘え」という形をとる。
もちろん子供は、衝動・忌避・愛着・固執をそのまま発露するし、それを養育者にそのままぶつける。存分に甘える。
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そのうち、養育者がやってられなくなり、拒絶した場合、
「どうしても養育者か、とにかく誰かから、あれが欲しいんじゃい、これをやらせて欲しいんじゃい」
と子供が思う。
これは、ざっくり第一次反抗期前後の、わがままに通じるところがある。
2.5.世間の対人倫理が、衝動等や甘えやわがままを抑圧する
対人倫理は、こうしたわがままを妨げる抑圧として、効き目のあるものだ。
わがままを言う子供に、それでも周囲が
「こういう理屈が世間を支配しており、世間にその理屈から外れたことを言っても、黙殺される」
と示し続けると、どうなるか。
たいていは、人は処世のために、これを受容して馴れていくものだ。
(そうならない場合もあるが、この話は今回の話とは遠いし、不幸な話なので、避けます)
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自由意志に少し近い話をすると、
「周囲が妨げたら、一貫してやりたいことを『自主的に』引っ込める」
「周囲に抗わないよう『内なる誓約を立てている』」
ということは、処世の上では、大いに在り得る。
だがそれはぶっちゃけ、外から見ても、あと自分自身で振り返っても、同調か自由意志かの区別は出来ないであろう。
そういう状態で生じるものは、自由意志と言うより、実は無意識で生じた同調を、
「自分は受け入れた。つまりは、この受容は、自分の自由意志に他ならない」
と後付けで合理化している、つまりは誤魔化しているだけかも知れないので。
これは
「あのブドウは、きっと酸っぱかったのだ」
という、イソップ寓話の『酸っぱいブドウ』のエピソードにも、若干通じるところがある。
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対人倫理にうまく乗れると、世間で処世をやっていけるし、場に受け入れられるし、何なら広く権限の認められた高い地位を得ることも出来る。
ぶっちゃけると、群れているか、承認されているか、そして偉いかどうかは、自由意志の有無以前からあるものだ。
(自由意志の話は、このすぐ後ですることになる)
2.6.欲望は、他者や対人倫理を「逆にこちらから否定すべきものとして」ビルトインした状態で生えて来る
で、ある日、
「周囲が妨げてでも、どうしてもこれをやりたいのだ」
という欲望と、周囲への反抗が生えて来る。
しばしばそこから、自由意志というものもまた、生えて来るのだ。
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そもそも、欲望は、「周囲が妨げてもなお在る」という形で、単なる衝動や忌避や愛着や固執と区別されるものだ。
周囲が妨げて、「どうしても自分が自分でやるんじゃい」というのが欲望なのだ。
だから、何なら欲望においては、他者や対人倫理は「逆にこちらから否定すべきものとして」ビルトインされているまである。
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「じゃあ、貫徹したい欲望も、周囲への反抗もない人は、自由意志がないとでもいうのか。ナメてんじゃねえぞ」
と文句を言いたくなる人がいるかも知れないが、そこはそうではない。
自由意志は「持っていると偉く、持ってないとバカにされるトロフィー」ではない。ここは間違えてはいけない。
(ここは本当は別の、より高度なものがトロフィーとして効いて来る。その話は、もうちょっと後でする)
2.7.対人欲求は単なる甘えやわがままと違い、欲望でもあるので、かなり危険なものでもある
欲望が生えて来た後で、周囲が拒絶している、あるいは拒絶されるリスクがあるにもかかわらず(恋バナで「告白をためらう」系の話は、基本これで生じていますよね)、
「どうしても特定ないし不特定の誰かから、あれが欲しいんじゃい、これをやらせて欲しいんじゃい」
と本人の中でなっていくことがある。
これは、ざっくり第二次反抗期前後の、ある種の対人欲求に通じるところがある。
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第一次反抗期前後のわがままと、第二次反抗期前後の対人欲求が違うのは、後者は
「どうしても自分が自分でやるんじゃい」
ということを持ち込むことがあり得るということだ。
つまりはほっとくと
「どうしても誰かから、この自分が、直に吐き出させるんじゃい」
になる。
もちろん、これはそのままでは周囲は激烈に困ったことになるし、本人も袋叩きに遭うことであろう。
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なお、自他の境界のある種のものは、ここで形成されるところがある。
要するに、「欲望する自分と、欲望を妨げる他者や、世間(≒対人倫理)」ということだ。
極めてありふれた話だが、自分に欲望を向けられる相手が、自分の欲望を妨げることがある。
「抱いた欲望が成就すると嬉しい」という、欲望の主体としての心性は、かなり多くの人が持つ。
が、「欲望される客体であると嬉しい」と言うのは、かなり人工的で不自然な在り方だ。
(承認欲求と結びつく場合は、実はこれは比較的自然に生じうる。
が、そうでない場合は、まずこういった成り行きにはならないだろう)
多くの場合、欲望を向けられたくないから、欲望を妨げたくなる。極めて単純な話だ。
まして、「どうしても自分が誰かから直に吐き出させるんじゃい」という人に吐き出させられたら、ここはもう激烈な摩擦しか生じえない。
そんな激烈な摩擦が待っていて、しかも相手としては
「よかろう。やり遂げさせてやろうではないか。やっていきましょう。やるぞー」
とは一言も言ってない場合、
「やり遂げさせてやろう」
という話になんか、なる訳がねーんだよな。
2.8.欲望や対人欲求は、そのうち他者や、既存の世間の対人倫理との摩擦と擦り合わせが避けられなくなる
そうなるとどうしても、
「欲望や対人欲求と、否定したい対人倫理や、否定して来る誰かとを、嫌だろうが何だろうが、軟着陸できるように、擦り合わせる」
という話にならざるを得ない。
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そんな訳で。
もし、欲望や対人欲求が、他者や対人倫理と整合的になることがあるとしたら。
それは欲望や対人欲求が生えて来た後の、激しい苦痛を伴う擦り合わせの成果だ。
つまり?
それは通常、隣同士の、横の擦り合わせだ。前後関係を見ても、何らビルトインではない。
(もし、「ビルトインされている」と言いたいのならば、それは「否定すべき前提」としてだ。
これでは通常イメージされる話とまるっきり違う意味合いになるのは、まあ分かるだろう)
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ここは重要なポイントだ。
「対人倫理が欲望や対人欲求にビルトインされている」
という言説は、現実の説明に合わない。
だから、そこに立脚するいかなる話も、基本的に現実に合わない、有害なものになる。
私はこの手の言説に、今のところ、一ミリも乗れないのだ。
だって、嘘だし、邪魔だもんな。
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ちなみに、自由意志をトロフィーとして使いたい人向けの話を再開すると。
トロフィーが欲しいのなら、自由意志だけでなく、その後で出て来る話、
「周囲が何といっても、グッと堪えて、自分が自分のやったことや言ったことの責任を取る」
というところまで行かねばならない。
そういうレベルでのトロフィーは
「自己責任を取れるやつである」
というのだ。これが実用的なトロフィーだ。
「自由意志を持つやつである」
というのは、たかがトロフィーの土台でしかない。
トロフィーの土台だけをトロフィーと見なす人はいないだろう。
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で、その自己責任は、自由意志と、他者や、世間の対人倫理との擦り合わせで、大なり小なり何らかの摩擦を伴って生じてくるものだ。またか!
(「自由意志と自己責任は同時に生えて来る」論者、時々見るが、自分の人生を振り返って、本当にそう言い切れるか? 違うんじゃあないのか?)
2.9.対人欲求のエゴイスティックさと『対人倫理2.0』の話(概要)
次回は、今まで論じて来た、いわば『対人倫理1.0』のネガである自由意志が、その後ゼロから構築しなければならない、『対人倫理2.0』の話をします。
『対人倫理2.0』をやることで、対人欲求は、ある程度きちんと軟着陸できる余地が出て来る。
しかし、
「『対人倫理2.0』をもって、他人の対人欲求をうまく軟着陸させてやろうではないか」
という人は、それほど多くない。
それは、その人がそういう立場にいるか、そしてその人に義理人情マインドがあるかどうかにかかってくる。
(義理人情マインドとは、『対人倫理2.0』によってかなり高度に強化され、それ自体『対人倫理2.0』と化した『ケア/危害』のことです。ここについても次回説明します)
だからこそ、『対人倫理2.0』による対人欲求の成就は、いろんな条件下でしか成り立たない脆い手段である。その脆さは弁えておかねばならない。
その上で、それは、あると、とてつもなく有難い。
なんせ、できるできないで言えばできるから。話が早いから。つまりは、効率的だから。
そういう話になると思います。
また、次回でこの連載は終わりの予定です。
乞うご期待。
(続く)