随筆(2021/12/21):「反抗期の子供を社会に送り出せるような養育者と同等の立ち振る舞い」という、色恋沙汰における呪われた賢者の石の話(1_15-1_17)(信頼、心を開く、甘える)
1_15.安心して人間関係をやっていけるだけの信頼を、創り、守り、回復する
やはり、口先ではない信頼が要る。
そしてそのためには実践はどうあったって要る。
だって、誠実さのある種の顕われ、言行一致とは、そういうことなんだから。
(何なら、実践が直ちに必要な時に、口頭でのブリーフィングなど、邪魔な手間な場合すらある)
「実践をやるなら、こういう形式での実践の積み上げ方がキマるので、やっていきましょう」
という話を、これまでの記事でたくさんしてきたつもりです。
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何のために?
それは、相手と心を開き合うためです。
気兼ねなく、水臭くなく、やっていくためには、どうしたって心は開かなければならない。
ずーっと遠慮し続ける関係をやり続けていたら、気兼ねはあるし、水臭いに決まっているではないか。
それでは先には進めない。
詰んでる感じのある恋愛、いずれ色褪せて飽きて終わる。
それ、ダメ。
1_16.心の柔らかいところを相手に開く
そんな訳で、この記事で何度か
「中間目的として、心の柔らかいところを相手に開けるようにする」
という趣旨のことを書いていたと思います。
もちろんそのためには、ふつうは余程の信頼が必要になります。
(あと距離の詰め方をうまく取ったコミュニケーションの積み上がりが必要になります。
この前、「きどにたてかけし衣食住」の距離感の話をしたのも、正にコミュニケーションの距離の詰め方の具体例だからです)
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これがないのに、信頼のない悪党に内心を開くと、どうなるか。
自分の細かい情報は毟られ、実印は掌握され、不動産は抵当に入れられ、動産は売り飛ばされ、自分はさまざまな奉仕をさせられしゃぶりつくされた後で、悪党から「もう味がしない」と判断されたら広義の人材派遣会社の商材になる。
昔はこれは直ちに「奴隷」ということであり、人生の大部分か全部を棒に振るやつです。当然、こんなもん最悪です。
そして今でもそういう話は貧困ビジネス等でふつうにあります。(IT派遣でもあった。私は人材という名の商材当事者でもあったのだよな)メチャクチャツライ。
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変な話ですが、コミュニケーションの距離の詰め方がうまいだけで信頼してしまうと(距離を考えたコミュニケーションそのものは「ないでは済まされない」のですが)、口先三寸で人を食い物にする輩の食い物にされて、商材としての人材として使い潰されて、何の救済もなく絶望の中
「こんなはずじゃない、こんなのはおかしい」
と呟きながら死ぬだけです。
巧言を弄する輩、います。メチャクチャ気を付けましょう。
1_17.甘える
1_17_1.みっともなくも、甘えられるほどの、近しい距離感
相手に委ねる、甘えるというプロセスそのものは、ものすごく大切なことです。
心を開くことの果てに、これは生じる。
そして、その気兼ねのない安逸な状態での甘えは、受け容れられたら、受け容れられた側はものすごく甘美でしょう。
他人にお願いする時は、相手がこれにウンと言うかどうかは、常に相手の自由意志です。
遠慮、ある程度は避けられない。
で、だいぶ遠慮して、言えないお願いもある。これは当然、フラストレーションの源になる。
信頼関係を積み上げると、そういうお願いも
「オッ。やってやろうか?」
と聞いてもらえるほどになる。
こうなれば、それまでのフラストレーションも、ある程度は成仏するというものです。
人と付き合う以上は、ある程度の気兼ねは、やはり避けられない。
だからこそ、逆に、しなくていい気兼ねは、ものすごいフラストレーションの源だ。関係をぶち壊して余りあるくらいの。
そういうの、出来るだけ、ないようにしましょう。
1_17_2.相手との距離を保つ礼儀正しさが、接近しつつある相手への侮辱になる時
甘えないままで行われる依頼は、今までの話でも踏むべき段階として当然のように書いてきました。
もちろん必要なことですし、端正な姿勢であるとも思います。
綺麗事が好きなら、恋愛の綺羅綺羅(キラキラ)として、そういうのに憧れるかもしれません。
が、これ「だけ」だと、自分の要求もさることながら、実はこれは相手に
「言いづらいお願いをできないようにしているのと同じ」
なので、相手にとんでもないフラストレーションを与える付き合いになります。
フラストレーションで濁った恋愛、キラキラとは言い難いところがあります。そういう恋愛が、ある日色褪せて見えて、うんざりして飽きて終わってしまうのも、しょうがないところではあるでしょう。
そして、心を開いて、言いづらいお願いが出来る状態には、永遠に進めないのです。
「あっ、この人と一緒にいても、何処にも行けない、何も創れない。
この先はデッドエンド、死に筋の終着点、行き止まりだ」
と判断されて、そりゃあ当然逃げられてしまいます。
「あなたと私の間には、甘えるだけの親しさは、構築出来ていない。
あなたは構築出来ていると勘違いしているのか?
私の目からは、あなたの親しさ、疑わしく映る」
これは、相手との距離を保つ礼儀正しさという観点からは、まあ正しいでしょう。
ですが、接近しつつある相手にこれをやったら、途方もない侮辱になることも、まあ分かるでしょう。
「親しき仲にも礼儀あり」
は、もちろん正しいよ。
でも、
「あなたと私は接近しつつあるが、距離の観点からすれば、そんなのは間違っている」
というのを、この局面でやったら、じゃあ色恋沙汰の進展は、ここで行き止まりなんだよな。
しかもこれは相手を、うっかり間違ったことをしている愚か者か、わざと間違ったことをしている嘘吐きとして扱っているのと同じだ。
これを敬意と言い抜ける気か? 無理な話では?
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「他ならぬこの相手に甘えたい」という自分の気持ちを認めることが、大事です。
そして、「他ならぬこの相手に甘えたい」という相手の気持ちを認めることは、メチャクチャに大事です。
これは、関係が熟してきた徴候だ。
そういうところを、大事にしていきましょう。
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逆に、心を開ける距離感でないのに、甘えるの、これは信じられないほど鬱陶しいものです。
親しい相手の甘えなら
「おう、聞いてやろうじゃん」
となるが、そうでない相手の甘えだと、
「何で、大して親しくないお前の、そんなお願いを、聞かなならんねん」
となるでしょう。
何なら汚らしい下心にしか見えない。当然これでは、色恋沙汰は秒で色褪せてしまう。
だったら、自分がそれをするの、やめましょう。
1_17_3.当事者が、信頼している相手に、言いにくいお願いをしているのを、第三者たちが聞いてて蹴っ飛ばしたくなることがある。それ、ダメ。最悪だ
当事者が、信頼している相手に、言いにくいお願いをしているのを、第三者たちが聞いてて蹴っ飛ばしたくなることがある。
それ、ダメ。最悪だ。
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「刑法に鑑みて、やると罰がある」
ニーズと、
「ドン引きされるので、聞いてもらいにくい、言いづらいが、信頼を積み重ねるか、業者に依頼して公正に決済すれば、不可能ではないし、現に聞かれている」
ニーズは、法体系上においてもだいぶ違うのです。
そして後者は別に法体系上では何ら禁止できません。
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「ドン引きするような話は脅威なので、治安のために禁止できる」
と思っている人、かなり恐ろしい。
「こいつは脅威であり、最終的に抹殺を正当化されるべきであろう。
というか、何で干されてないのコイツ? そんな世の中はおかしいんだよな。路頭に迷って欲しいんだよな。
そして、結果としてハローワークの前の路上で行旅死亡人として処理されているとしても、そりゃあ当たり前なんだよな。何なら末路として相応しいまである」
という意味合いを帰結する話をしながら、
「我はハローワークのある現代福祉国家日本の素晴らしい民間人でござい」
という顔をしないでほしいのだ。
これをされた側が、どう思うかと言うと、
「ああ、結局、自分は満たされてはならないのだな。
自分が望む限り、自分はパブリックエネミーである。そういう宣戦布告を受けている。そこに依然変わりはなかったのだ。
ふざけるなと言いたい。公共が俺を敵として、最終的には干し殺すなら、自分も公共に対して抵抗の限りを尽くす」
という無敵の人になります。
最悪だ。
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これはマジで誰しもなりえます。
というか、上の話に
「やだーこわーい」
となった人ほど危ない。
許されていることが、ある日許されなくなった場合、ふつうは人はゴネますし凄みますし揉めるし、その後ことあるごとに反発の限りを尽くす訳です。
昨日まで許されていたことが、世相の変化とやらで出来なくなり、
「これ、もう、ダメなんですよ」
と小賢しい顔で言い出した公僕が目の前にいたら、市民だったら
「あぁ?」
くらいは言いたくなるものでしょうし、場合によっては
「何でダメになったんだよ。
お前らが勝手にダメにしてるんじゃねえか。
自分は同意したつもりは一切ないんだからな」
とガン詰めしたくなるでしょう。
(私は保健所職員で、他の課は飲食店を担当するのですが、このコロナ下で飲食店は世間的にそうとう悪者にされてきましたし、保健所は時短営業などで猛烈な不利益を強いて来た訳です。
かなり多くの飲食店は保健所を真剣に憎悪していますし、今年は手続きの際に常に「あぁ?」と凄む人もたくさんいたのです。
当たり前でしょう。どう考えてもこれはキレる)
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で、キレてる人たちが、何かあると揉める。そういうリスクの高まった世の中になる訳です。
一般にこれで世の中が円滑にいく訳がないし、何ならそういう頑強な抵抗を自分が直撃するのです。
この時点で、脅威のない状態からは程遠い訳ですね。
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どうしてこんなことになったのか。
話はメチャクチャ簡単で、そもそも、自分が不特定多数に喧嘩を売っちゃあいけないんですよ。
現に
「公共の敵よ、干されろ、結果として死んでもこちらは関知しないし、以後はバックグラウンドで行旅死亡人として処理されるのが相応しい案件である」
ってやってるんだから。
そりゃあ相手は喧嘩を買うわ。
しかも自分が始めたんだ。
大人しく観念しろ。
したくない?
じゃあ最初から喧嘩を売るなよな。
という話にしかなりえないんだよな。
公僕として権限を付与された者以外が、刑法等に基づかないで、人に制裁を与えて村八分的に社会的・政治的・経済的にアクセス制限する。
これ、旧い由来の市民感情としては存在するのは明らかだが、別に市民権として通用しているようにはおよそ見えないですね。
なぜ通用していると勘違いしたのですか?
というか、これはこういうニーズ、私利私欲の願望では?
これが通用していないのには、
「これをやると社会は逆に治安がリスキーになる」
というかなり正当な理由があり、だからこの願望はふつう法体系レベルで許されていません。
というか、近代刑法はふつう私刑や私闘を禁じています。
ある水準以上の治安にとって、これが致命的にはたらくからです。
ほっとくと人が人間松明にされる風土、治安がいい訳がないし、これで警察官や裁判官や刑務官がキッチリと仕切れる訳がないんだよな。この時点で自警団や任侠団体を止められる力も正統性もないし、それらが軍閥になったあかつきには、いずれ地方自治体や中央政府は削り殺されるんだよな。
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そういうことで、
「信頼関係のある、心を開きたい相手に、言いにくそうに、だが心を開いてお願いしたこと」
を、
「第三者たちがフクロにして詰める」
ということを、しちゃあいけないんですよ。
第三者たちには、そんな権利、ないですよ。
ハイもイイエも、本人たちのものでしかない。第三者たちがとやかく言っちゃダメな領域だ。
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もちろん、「甘える」というより、「食い物にしている」という風にしか見えないこともあるし、相手が「困った顔をしている」時もある。
その時は、これは相手が「脅威に晒される」ことを「余儀なくされている」ということなので、第三者たちがお節介で止めさせることは、大いにありうる。
とはいえ、それはやはり、下手すると邪魔っけなお節介である。ということは、念頭に置かねばならない。
それに、このせいでもし揉め事が大きくなったら、その責任はお節介をした第三者たちが負うことになる。
要するに火をくべたのは第三者たちなんだから、第三者たちが火消しまでちゃんとやらなければならない道理だ。
そのつもりで、やるなら、「治安のためだと言い切れる」のであれば、そりゃあやりゃあええねん。
当然、そういう目的でやる以上、最終的に治安がダメにならないようにはしなければならないし、ダメになったらもちろん火消しは最後までやらねばならない。
繰り返しますが、そのおつもりで、なおも、やっていきましょう。
(続く)