随筆(2022/12/6):自由と呪縛_4.呪術=広義の暴力は、特定の感情や認知バイアスを用いた相手の選択肢の制約をもって行われる
4.呪術=広義の暴力は、特定の感情や認知バイアスを用いた相手の選択肢の制約をもって行われる
4.1.呪術=広義の暴力は、特定の感情や認知バイアスを用いた相手の選択肢の制約をもって行われる
さて、以前、心理的暴力を含めた場合の「広義の暴力」の本質が、
「相手の自由意志を削ってへし折ること」
である、という話をしました。
自由意志とは、実感としてはまずは
「何らかの行為を、特に引っかかりなくやれる」
という、行為に関する自己感覚こそがポイントである、という話もしました。
そこでようやく、
「そこを構成する諸領域にダメージを与えれば、自由意志に引っかかりを生じさせ、どんどん削ってやがてはへし折ることも可能である」
という話をすることができるのです。
たとえば、意思決定に負荷をかけてねじまげるとか、現状認識に負荷をかけてねじまげるとかです。
(意思決定や現状認識は、行為に関する自己感覚の手前にありますが、あくまで行為に関する自己感覚の構成要素の一個一個に過ぎない。ということは、一応気を付けておいた方がよいでしょう。)
さて、意思決定をねじまげるために便利なトリガーとして、感情があります。
同様に、現状認識をねじまげるのに便利なトリガーとして、認知バイアスがあります。
どちらもくだらない機能などではなく、むしろとてつもなく大事な機能で、
「自然界では、感情に従って、逃げたり刃向かったり欲しがったり拒んだりすると、高確率で生き延びやすかった」
でしょうし、
「時間がない時に、過度にリスクや脅威に対して鋭敏で、逃げたり刃向かったりするタイミングが過度に早く、過度にがめつく、過度に毛嫌いする、そんな認知バイアスに従うと、高確率で生き残りやすかった」
でしょう。
思考時間や脳のスタミナなど、リソースは常に足りない。
じゃあ思考時間や脳のスタミナを消耗してまで解像度を上げて見ようとすると、かなりの高確率でバテてくたばる。
解像度はざっくり必要最小限かそれより少し多ければいいし、少し早めに反応せざるを得なくなるくらい敏感であればなおいい。
これらは、21世紀の今でも、忙しい(時間があまりない)環境で難しい判断を迫られた時に、依然として有効です。
4.2.Fear, Obligation, Guilt (and Shame)
意思決定と現状認識を同時にねじまげる効果のある感情兼認知バイアスには、例えばよく言われている3つと、あともう1つが考えられます。
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『毒親』などの概念で有名なセラピスト、スーザン・フォワードの著作で、『ブラックメール』というものがあります。
この本で言われる『(エモーショナル)ブラックメール』とは、正に
「相手の精神的諸機能に、いくつかの感情的な回路を用いて、基本的には苦痛を伴う負荷をかけて、苦痛をもたらしつつねじまげるためのはたらきかけ」
のことであり、この記事で書いている呪術=広義の暴力の話とほぼ重複します。
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この本で重視されている3つの感情的な回路があります。
Fear(恐怖)
Obligation(義務感)
Guilt(罪悪感)
です。
個人的にはこれを拡張して
Fear(恐怖)
Obligation(義務感)
Guilt(罪悪感)
Shame(羞恥心)
としたいところです。
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「狭義の暴力とはまずは恐怖の手段である」
ということは、この一連の記事の方で既に書きました。
恐怖によって相手の現状認識を
「このままでは死ぬ。
致死の攻撃を止めてもらうためには、相手の言うことを聞かねばならないのではないか?」
と歪め、そのように意思決定させることが、目的のある暴力の基本的な在り方でしょう。
これは、支配のみならず、制裁ですら、本質的にはそうです。
だって
「自分が今やってるこれをやめれば、この制裁は止まる」
と思わせることが、しばしば制裁においては決定的なポイントなのですから。
(目的のない暴力もあります。それは暴れる力を持て余しているか、何かの八つ当たりをしているだけであることがほとんどです)
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もちろん、制裁が効率的に効くには、相手が「自ら」罪悪感を覚えるレベルにならねばなりません(ちなみに、そういう場合はしばしば単に説得すれば効くものです)。
恐怖は自然界ではありふれたものですが、罪悪感はかなり珍しいものであり、扱いも難しいところがあります。
とはいえ、単なる恐怖政策だけでは、人間社会が回らないことも、かなり明らかです。
ということで、罪悪感の話も、ちゃんとしなければなりません。
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さて、義務感や罪悪感はどうはたらくのか。
たいてい、狭義の暴力ではなく、ブラックメール=呪術=広義の暴力において顕著に出てきます。
義務感は「あれをしなければならない」という思考に人を導きがちです。
同様に、罪悪感は「あれをしてはならない」という思考に人を導きがちでしょう。
そして、
「これらは『自由にそう思っている』とは到底言い難く、思考を他人に誘導されているパターンではないか」
と多くの人は感じることでしょう。
「選択肢はこれしかないのでは?」とか「この選択肢を選んだらいけないのでは?」とかの選択肢の制約を、「誰かの操縦によって」受けるのです。
こんなもん不自由に決まってる。
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子供の頃はこれしかないかもしれません。
親や教師の示す、逆らうと「実社会的に、あるいは理屈として、やらなきゃダメだ」と難じられること。
逆らわずにやると「実社会的に、あるいは理屈として、やったことは良いことだ」と褒められること。
子供の頃は実社会も理屈も大して分かっている訳ではないので、判断のしようがありません。
だから、当初は親や教師の言うことをとりあえず信じてみるしかない。
そういう時期がしばらく続きます。
もっと判断基準を得ようと思ったら、情報収集するしかありません。
そしてその情報源は親や教師だったり、交友関係だったり、広く外の世界だったりします。
後者になればなるほど、ふつうは実社会や理屈と整合的になるものです。
そうして情報収集することで、判断基準がある程度整い、自分で検討して、自分で納得して、自由に意思決定できるようになります。
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そうして、自由意志がある状態で「何をやってもいい」と思えるが、「その前提の上で、なお」「あれをしなければならないなあ」とか「あれをしちゃいけないんだよなあ」と思うことによって、初めて責任感をもって規範を受け入れることが可能になります。
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もしそうでなかったら?
義務感や罪悪感を与える何者か(家父長や首長やお天道様等)が常に要請されるし、彼らの拘束力が弱まったらかなり多くの人が義務感も罪悪感も責任感も規範も放棄する。
だって、自分が納得してないのに守らされるのは不愉快だし、守らせる拘束がなくなったら、守る訳がない。
こうして、規範とそれに対する責任感は維持できなくなるし、社会は無規範状態になる。
社会の側になって考えたら、実はこれは面倒くささの極みです。
社会のためになることをやってもらうべく、言うことを聞かせるために、民をずっと監視しなければならない。
こんなの、政治の観点からは、猛烈なコストであり労力ですよ。
必要ならやらなければならないが、やりたくない。
約束を守るとか、暴れないとか、そういうのは民が自らやっていてほしいんだ。
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あと、スーザン・フォワードは言ってない話だと思いますが、羞恥心も、実はこういう、現状認識や意思決定を歪める感情にして認知バイアスです。
羞恥心は「自分がこうであること」に対する、存在や状態に関する負の感情です。
だからこれは時々自殺すらもたらす恐るべき危険な感情になります。
「おいは恥ずかしか 生きておられんごっ!」
と切腹する、山口貴由『衛府の七忍』のなんか薩摩隼人みたいに。
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なお、存在の否定ではなく状態の書き換えを迫る類いの羞恥心であっても、やはり危険です。
羞恥心を突かれて(言いませんでしたが、これはつまりは「侮辱されて」ということです。やってるやつは「侮辱して」いる訳です)、自らの価値観を部分的に書き換えなければならなくなると、どうなるか。
しばしばその人、その書き換えるべき方面を極端に強化させた、カルト的な政治思想やスピリチュアル思想や企業理念にハマりますよ。
というか、カルト的な政治思想やスピリチュアル思想や企業理念のかなりよくある手段が、相手を侮辱して羞恥心で思考をぐちゃぐちゃにしてから取り込む、というやつです。
だとしたら、迫られている当事者的にも、外形的にも、羞恥心による価値観の部分的な書き換えをやるやつは、カルトと区別がつく訳がありません。
実は、侮辱による価値観の部分的な書き換えは、
「己はカルトとして通報されうる」
くらいの覚悟をもってやることです。
それくらいのことをしているのだ。と思いましょう。
ということで、辱めなければ相手を説得できないの、やめた方がいいですよ。
相手に受容される(させる、ではない)言い方は常に大事ですよ。
それをやりたくない、過程で一度は辱めたい、ということは、
「こいつは説得より侮辱が好きなのだ。
なので、こいつの説得とも侮辱ともつかない話は、基本的に侮辱が主で説得が従であると考えるべきだ。
当然それは従たる教訓のメリットより主たる支配のデメリットの方が多くなるようなトークになる。
だって向こうのニーズは侮辱して言うことを聞かせることにこそあるのだから。カルトと同じ発想だ。
じゃあ、それ、こちらとしては、総合的には聞いてやる謂れが何もないんだよな」
くらいに思われても仕方ありません。
やめましょう。
自分の率直なニーズを相手にまともに受容されるような(繰り返すが、させる、ではない)言い方こそが必要なのです。
そこの研鑽を積みましょう。
***
実は、しばしば羞恥心は、罪悪感の中にもこっそり埋もれているものです。
何かというと、罪悪感は基本的には「やったこと」に対するものですが、罪人としての自分を責める気持ちは、本質的には「自分がこうであること」への羞恥心だからです。
義務感も同じで、「やらなきゃならないこと」への義務感そのものだけでなく、「できてない自分」への羞恥心が、こっそり埋もれているものです。
***
受け手の方も、気をつけねばならないことがあります。
何か。
「他人に非難された「から」恥ずかしい」
というのは、恥ずかしがるタイミングが不健全に早い。ということです。
一度グルグル頭のまま検討して、
「これ、本当に恥ずべきことか? 納得いかんが? 言いがかりに聞こえるが?」
と思ったら、恥ずかしがらないで
「なあ? これ、本当に恥ずべきことか? 納得いかんが? 言いがかりに聞こえるが?」
ということです。
それで、納得したら、そこで初めて、本当に恥ずかしがればよいのです。
他人に非難されて、検討の上で
「ああ、これはいけない」
と思うことは、まあまともな羞恥心の在り方でしょう。
単にガン詰めされたから
「こうまで脅されているということは、これはいけないことで、己はいけないやつで、あれをせねばこの脅しは止まらないのだ」
と思うのがいけない。
それは、詰められすぎたトラウマで、思考が制限されているだけです。
そしてそこは、
「相手のブラックメール=呪術=広義の暴力が、自分の諸精神機能を汚染して、自由を奪って、操縦しようとしている」
という可能性を、かなり真剣に疑うべきところです。
死ぬほど不愉快で、吐き気がすることを書きますが、宜しいでしょうか。
ガン詰めしている側がなぜこれをやってるかというと、
「「こうまで脅されているということは、これはいけないことで、己はいけないやつで、あれをせねばこの脅しは止まらないのだ」
と相手が思ってくれたら、こちらのニーズは相手に通る。
は? 相手の側が、技能的に、計画的に、できない、ってか? 理解に苦しむ。やれと言ったんだ。やれていろよ。いいから成果だけ寄越せっつってんだよ。チョップしたら受信状態の悪いテレビがちゃんと映るようになれよ。
はぁ? そうはならんやろ、ってか? 何でじゃ? いいからなれっつってんだよ。さっさとやれ。いい加減待たせんな。命令したこっちは迷惑してるんだ。
あぁ!? 誰が理解能力の足りないバカじゃコラ。舐めとんのかテメー」
こうです。
うん。
こんな愚劣極まりない話、巻き込まれたくないですね。
というか、ふざけるなと言いたい。
ガン詰めされることは、心底不快な出来事です。
トラウマになるのはごく当たり前の反応だと言えるでしょう。
そして、こちらをお手上げにさせようとするやつらのガン詰めは、まあ「ふざけるな」と言っていいレベルで愚劣な振る舞いです。
「ふざけるな」と拒絶しましょう。
場合によっては防犯ブザーを引いたり110番警察通報しなければならないかもしれません。
「要求を拒絶したら拘束的要求/威嚇的脅迫/物理的暴力があった」
という話を、警察にしなければならないかもしれません。
基本的にはそれらは「ほぼ常にやった方が得をする」ことです。
ご武運を。
4.3.自由意志を脅かさない自然なFOG(S)と、自由意志を脅かす危険なFOG(S)
自分が情報収集して、検討の上、納得の上で、目の前の事態に対して恐怖なり義務感なり罪悪感なり羞恥心なりを覚えて、それが判断や意思決定に影響するなら、それはまあふつうです。
降りかかる火の粉は不愉快ではあろうが、自分でどうこうすると決めた自由意志は別段脅かされていない。
情報収集も検討も納得もすっ飛ばして、恐怖なり義務感なり罪悪感なり羞恥心なりを盾に、誰かの操作により判断や意思決定を狭められたのだとしたら、それは自由意志は脅かされていると言える。
前者はふつうですが、後者のような事態は避けねばなりません。
「それ、自分で検討してから回答しちゃダメですかね?
正直なところ、その説得、聞く限りでは納得がいかないので…
そんなんで判断も意思決定もできないので…
「そんなのどうでもいいからとにかくやれ」
ってんなら、それじゃあやる謂れがないのですが…」
結局、こういう話は避けられません。
(子供だとそれも難しいでしょうが、都道府県等の児童相談所への相談は、しばしば激烈な効果があり、また場合によればかなり長期的な解決をもたらしうる、有益な手段である、とは申し上げます)
***
次回は、
「自由意志は社会とはは別物である。
当然そのままではこれらは整合的ではない。
じゃあどうやって擦り合わせていくのか」
という話をします。よろしくお願いします。
(続く)