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随筆(2022/12/11):自由と呪縛_5.自由意志と社会の接続としての「承服」と各種「服従」(前半)

5.自由意志と社会の接続としての「承服」と各種「服従」

5.1.単なる自由意志のモデルだけでは、受益者が他人や関係や場であった場合に、うまくいかない

さて、今まで自由意志と、それを妨げるものとしての呪縛の話をしてきました。

しかし、この話は、受益者として自分のことだけ考えている人のモデルに過ぎません。
実際に自由意志を行使する場合、受益者が自分であるとは限らないでしょう。
人のためだったり、人と人との仲のためだったり、人の場のためだったりすることも、たくさんある訳です。
そうなったとき、誰かの自由意志は、しばしば、別の人や仲や場に対して摩擦を起こします。好き勝手やったら他人に迷惑がかかるのです。

じゃあ、どうすれば、こういった摩擦に折り合いをつけていけるのか?
「自由意志は社会とは別物である。
当然そのままではこれらは整合的ではない。
じゃあどうやって擦り合わせていくのか」
という話を、しなければなりません。

5.2.自由意志と社会の接続としての「承服」と各種「服従」

そして、その中には、「承服」とか各種「服従」ということも含まれています。

***

相手に
「頼む。あれをやってくれ」
「頼む。あれをしないでくれ」

と言われた時に、
「嫌だね。
そして、嫌だと言う気持ちでしたりしなかったりするのは、自分の自由意志である。
何人にも妨げられない」

と返すことは、ふつうにありえます。

で、これはもちろんありふれた話なのですが、同じくらい当然の話として、これを貫徹した場合、一切のお願い事が不可能になります。
じゃあ、お願い事のありうる、少し踏み込んだ人間関係は、一切不可能になります。
そもそも、そんな相手にお願い事をすること自体、避けたくなるじゃないですか。
だから、上っ面の関わり合いしかしなくなります。
言いたくありませんが、長期的には「詰む」スタイルです。

ふつうに考えると、
「この話は呑めるが、この話は呑めない」
というのが、自由意志とお願い事の間にある訳です。
これは、「承服するかしないか」という回路が、自分の中にあるかないか、という話に他なりません。

***

もっと高レベルの話もします。
倫理や道徳や法などの約束事に従わなければ、社会国家ただの略奪の荒野になります。
そういう社会で円滑な生存や生活や取引ができるかというと、まあ無理です。
少なくとも今の日本の私たちは、こういう状況下ではもう、生活どころか、サバイバルの段階でかなり厳しいでしょう。

だったら、円滑な生存や生活や取引のためには、倫理や道徳や法に、自分の行為を沿わせねばならない。
この時点で、自由のもっとも原始的な在り方、「やりたいことを妨げられない」というのは、部分的に放棄せざるを得ないわけです。

後で説明しますが、こういう形で自ら服従を選ぶことは、ありえます。

5.3.自由意志と服従が常に両立しない訳ではなく、両立する場合がいくつか想定されている

人によっては、こう思うでしょう。

「「自由」と「服従」は逆向きの話だろう。服従してる時点で自由もへったくれもあるか」

なんと、講学的にはそういう単純明快な話は採用されていません。
両者が接続される場合があるというのです。

計量政治学者、高畠通敏『政治学への道案内』における服従の6分類は、今でも公務員試験、特に政治学の分野で使われているものです。

https://www.amazon.co.jp/%E6%94%BF%E6%B2%BB%E5%AD%A6%E3%81%B8%E3%81%AE%E9%81%93%E6%A1%88%E5%86%85-%E8%AC%9B%E8%AB%87%E7%A4%BE%E5%AD%A6%E8%A1%93%E6%96%87%E5%BA%AB-%E9%AB%98%E7%95%A0-%E9%80%9A%E6%95%8F/dp/4062921103

服従の6分類とは、こうです。


  1. 盲従(信頼や尊敬による無条件服従)

  2. 信従(正当性を受け入れた上での服従)

  3. 欲従(利益の期待による服従)

  4. 忍従(制裁を恐れての服従)

  5. 賛従(賛同に基づく服従)

  6. 被操縦(マスコミ等の情報操作による服従)

(上の説明は、『公務員試験1問1答』というサイトのもので、簡素にまとまっているので、そのまま使っています。)

さて、ここで、一般的に考えられる、「自由に反する」イメージを帯びる「服従」というものが、実は4.の忍従6.の被操縦のことをほぼ指している、ということに気づきます。

4.の忍従は、制裁を恐れているということで、他人に与えられる恐怖等によって、感情レベルで意思決定を歪められているパターンです。こちらは呪縛としては分かりやすいでしょう。
6.の被操縦は、「意思決定に引っ掛かりはない」「認知バイアスは操作されており、現状認識は歪められている」ので、やはり呪縛が働いているパターンです。

***

そして、なんと他は

「相手への信頼や尊敬により「自ら」従う」(1.盲従)か、
「理屈が理解出来て、「言われてみればそうである」と納得して「自ら」従う」(2.信従)か、
「「やれば報酬がある」と期待して、その報酬を欲して「自ら」従う」(3.欲従)か、
「提案に賛同して「自ら」従う」(5.賛従)

であり、要するに「自ら」従っているのだということが分かってきます。
ここには、恐怖等や認知バイアス等を、しかも他人に煽られた、という呪縛のプロセス特に存在しておりません。

言われてみれば全部しばしば観測されるパターンです。
盲従誰かに熱中した時に、信従説得された時に、欲従対人取引や上司命令の時に、賛従会議の時に。

***

ぎょっとするでしょうが、要は、

  • 4.の忍従や6.の被操縦の時「は」自由意志は確かに脅かされているが、

  • 1.盲従や2.信従や3.欲従や5.賛従の時「は」自由意志「によって」服従している

というのが、より実態に即した説明になります。

もうちょっと細かく言うと、何かに服従するのは、

  • 同意の上で受容して自らやる(1.盲従や2.信従や3.欲従や5.賛従の場合)か、

  • 「嫌であるが自分は抵抗を貫徹できない」と諦める(4.の忍従の場合)か、

  • 情報操作された上で自発的にやってその成果を誰か操縦者に利用される(6.の被操縦の場合)か、

このどれかのパターンになります。

5.4.自由意志で服従した場合と、自由意志を折られて諦めて服従した場合を分けることは有益である

「お前が服従したとしても、それはお前の自由意志で服従したんだろ」
という暴言を吐く人がいます。

これが一見正しそうに見えて、実は不当である理由について、考えてみましょう。

「一見正しそうに見えて」の方は、「服従」の分類のうち4/6もが、実際に「自由意志で服従している」パターンだからです。

「実は不当である」の方は、この文言が吐かれる状況というのが、たいてい4.の忍従のパターンだからです。

4.の忍従の場合は、呪縛によって自由意志を折られて、消極的受動的に諦めることによって服従しているのです。
積極的能動的な自由意志でなされる服従ではありません。
だから、命令する人が、「相手に諦めさせた上で」「相手が自由意志で選んだ」かの如く言えば、それは端的に欺瞞である訳です。

5.5.「お前は騙されて操縦されているバカ」という侮辱にならないよう、言葉を選んで、「お前は騙されて操縦されているんだ」と伝える必要がある

6.の被操縦の場合、一個気を付けねばならないことがあります。

何かおかしな命令に服従している人に、それをやめさせるべく説得する時に、被操縦の場合、
「お前は操縦されているんだ。
そうではなく実態はこういうことだ。
お前は騙されているんだ」

と言いたくなることがあります。

で、これは、言っている人の意図とは関係なく、世間的には
「お前は騙されて操縦されたバカ」
という侮辱になる。
ということは、よく覚えておいた方がよいでしょう。

侮辱で相手に働きかけることが、羞恥心をダシにした呪縛そのものであることは、既に述べました。そういうことです。

あなたが、カルト的な思想の動画を視聴して、思考を歪められた家族を、何とか説得しようとしているものと仮にしましょう。
上をやった時点で相手の姿勢は確実に硬化します。
以降、話がほぼ通らなくなった、という経験がある方もいらっしゃるかもしれません。
やっていることが、侮辱による操作になってしまっているのだから、実はこれは当たり前です。

5.6.自由意志で服従している人の服従をやめさせようとする場合、その働きかけ自体が呪縛であることは、覚悟の上でやるべきである

1.盲従や2.信従や3.欲従や5.賛従の場合、自由意志で服従している訳です。
何らかの理由で、自由意志で服従している人の服従をやめさせようとする場合、気を付けなければなりません。
何かというと、これは
「相手の自由意志にケチをつけて、何なら「お前は服従しているバカ」と侮辱して、違うことをさせようとしている」
のです。
残念ですが、もう今までの話の流れから分かるでしょう。この働きかけ自体が、なんと「呪縛」だったりするのですね。
相手の自由意志にケチをつけて、何なら「お前は服従しているバカ」と侮辱して、違うことをさせることは、そうとう「重い」ことだと思って下さい。

5.7.言い回しを気を付けたとしても、現状認識の話である以上、「正直であること」と「正しく伝えること」は当然避けられないし、それが侮辱や皮肉になってたらダメです

外野が出来るのは、侮辱にならないような事実の羅列の言い回しくらいではないでしょうか。
「自分がこれを言われたら、これは世間的にはまあ侮辱だし、自分もそう受け取るだろうな。
どうすればそうならなくなるんだ?」

そういう、失礼に当たらない、礼儀正しい言葉の選び方に心血を注いだ方が、当然ながら相手には届きやすくなるでしょうね。

***

また、
「あなたが殴るのをやめてくれない限り、私はあなたといると苦痛があり、それは愛をもってしても耐えられないので、あなたとの関係を解消することを検討せざるを得ない」
とか、
「今私には資力がない。
生計上ギリギリをやって何とか操業しているのだ。
資源を供出するかしないかの話は、ふつう資力のある人が可処分所得を払うという話である。
そうでない人に供出させようという話、筋が通らないし、納得からも程遠い。
だから、資源の供出を要求されても困る」

とか、そういう「正直な動機」の説明も必要でしょう。

もしそこで動機が隠されているとしたら、
「こいつ、なんか不正を企んでいるのではないか?
そのために己を操縦しようとしているのではないか?
だから、己が聞いたら断る可能性の高い不正な動機を伏せているのではないか?
それはだいぶ欺瞞的なやり方だと感じる。
そもそも不正な動機で人にお願い事をするな」

と疑われる可能性は高く、だから結局は話を聞いてもらえる可能性は激減します。

「重い」「えげつない」お願い事であっても、相手が「自由意志の結果」幸運にも断らずに承服してくれたら、トラブルはかなりなくなります。
もし、ここで「重い」「えげつない」動機を伏せたら、後で動機が発覚した時に
「断れないように、黙ってて、しかもやらせた」
ということになりますので、信頼はぶち壊しになりますし、次回や次々回には端から話を聞き入れてもらえなくなる可能性が高まります。
相手と継続的な人間関係を持っている場合に、こんなことをしていたら、人間関係は損なわれるか失われるので、総合的に見た時に「損」になります。

***

ちなみに、皮肉もダメです。
相手が生殺与奪の権を握る王であるなら、そういう皮肉による説得は、道化や遊説家によって東洋西洋問わず行われてきたかもしれません。
ですが、それ以外の場合は、
「お前はちゃんと言っても分からんバカだろ?」
という、かなり強烈な侮辱
になります。

***

「ちゃんと言う」ということは、上のような礼儀正しい言い回しに心血を注ぐことによってはじめて可能なことです。
相手が受け入れがたい形でそっけなく事実を投げつけたり、ましてや侮辱や皮肉に聞こえる言い回しによって達成できることではありません。

今日、侮辱や皮肉が相手を説得できる可能性は、ほぼありません。
分かる人の共感と、肝心の相手方の絶大な反感だけ買って終わります。
前者がどうあろうとも、後者に失敗している時点で、その侮辱や皮肉は、説得としては無価値です。

そういう類いの漫画がTwitterでバズって褒められているのを見る度に、私は
「これで説得が成功するの、リアリティ、あまりにもなくない?
成功していてほしい、「相手が聞き分けて欲しい」気持ちは百歩譲って分かるが、じゃあこれは願望ファンタジー漫画であって、方法論のモデルの教本じゃない。
この二つを並べられたら、ふつうは脳内で「これは都合が良すぎるから嘘」というセンスがはたらくものではないのか?
そこで「これくらい聞き分けてくれると都合が良いんだよねー」じゃなく、「「実際」あるあるだよねー」と褒めること、あるか!?」
という思いを禁じ得ません。

「相手への説得が失敗しようが、自分の正しさは変わらぬのだから、それでよいのだ」
という考え方もあるかもしれません。
ですがそれは、「分かる人の同意」に寄った考え方であり、「相手の納得」を放棄した考え方です。
だとしたら、そういう姿勢でなされるそれは、説得ではありません。
外形的には「自分」と「分かる人」向けの内向きのトークと区別できません。
説得の受益者を「相手」じゃなくて「自分」や「分かる人」に置いてはいけない。

***

既にだいぶ話が長くなっていますので、残りは「後半」に続きます。宜しくお願いします。

(続く)

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