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随筆(2024/10/21):推論は、意思決定のためというより、検証や説明のためにあるのではないか

1.推論は意思決定のため、というモデルがあるが、そうでないことの方が多い

人の精神活動についてのカント哲学の一般的な解釈として、しばしば言われることですが、
「人は「今何が起きているか」知覚(感性)「これはどういう出来事なのか」理解(悟性)「どうすればよいか」推論(理論理性)、場合によっては「やると決意したぞ」意思決定を行う(実践理性)
とされます。

最近、これに関する反例を、身を以て体験することになりました。
ある方からある話を持ち掛けられたのです。
しかしその話は、俺が諸般の事情でやれないことだったので、
「これこれこの理由でお断りしますし、関係者各位にその旨伝えて下さい」
と解答しました。
その方はその通りして下さったのですが、
「説明を受けても、なぜそれがやめる理由になるのか、理解できない」
とポカーンとした顔でおっしゃられていました。

つまり。
「人は、やらんとしていることが理解できていなくても、それがどういうまずい帰結をもたらすか推論できなくても、やることを決意することがある」
訳です。

きっと俺もこれをたくさんやっているはずなのです。
皆さん、自分の今意識的にやっていることを、
「これはこれこれこのようなことであり、こうした理由でやっている」
と、一つ残らず説明できますか?

「よく考えたら、だいぶ変なことを、今正にしている」
というのは、生活上、年に数回くらいは、あることなのではないでしょうか?

(ない、という方は、ここから下の記事を読まなくて良いです。
ただ、
「自分のやっていることの検証が不足している可能性はある」
とだけ申し添えます。
俺は以前これでマジで激務を止められなくなって、心身をぶっ壊して、前職を辞め、無職で喘いでいた時期が長いので、これがどれほど危険なのかはお伝えしたいと思います。
人に心配そうに言われて、初めて
「あっこれ世間的にはヤバいパターンやんけ。俺がこうなってるってことは、俺が今正にヤバい…ってコト?」
ってなったもんな

***

ということで、理解なり推論なりは、意思決定の不可欠な前段階という訳ではない訳です。
今目の前で起きたことを知覚できても、それが理解できず、推論もせず、その上で意思決定することは多々あります。

短絡的?
そうですね。
そして、それは誰しもあることでしょう。
私だって
「とにかく今目の前の仕事をやらなきゃ餓死する」
という固定観念に凝り固まったら、理解と推論は全部それに塗りつぶされて、結果的に心身をぶっ壊して酷い目に遭ってしまいました。
自分が安全地帯にいるとは思わない方がよいでしょう。

それに、短絡的であることが病的であるとも限らない訳です。
目の前に切迫した出来事があり、安定した気分と十分な思考時間が持てない状態で、何かを決断せねばならないことは多々あります。
そこでしばしば
「オラッ! これで行くぞ! ヨシ!」
と即断即決して、その選択でまずやっていき、軌道修正が効くなら随時やる
、ということはしょっちゅうでしょう。
何なら
「考えるまでもなく、テキパキ手を動かして、気が付いたらやり終えていた」
ということすらあり得ます。
短絡的という観点から言えば、これは究極の短絡でしょう。
しかし、仕事でも生活でも、まともな組織で評価されるのは、
「成果を常時たくさん出せるとみなされるやつ」
です。

推論のプロセスに時間を割き過ぎて、結果的にはもたもたしているやつではありません。
それが許されるのは既に地位のある人だけですし、もたもたしすぎていたらやはり地位を喪失するのです。
(言っときますが、搾取的な組織は違います。
だって、成果だけ吸って、評価せず、給料も渋くしておけば、組織だけが一方的に大儲けだからな。
もちろん社員は早かれ遅かれ使い潰されるだけですし、それはかなり「早い」のです。私は3年ちょいでした)

短絡、かなり明瞭に、手を動かす時間を増やすための、立派な生存戦略ですよ。
それができないという話、何も偉くない。

2.それでは、推論は何のためか

2.1.検証のためではないか

それでは、推論は何のためか。
一つは、
「やった後で、改善点を拾い集めて、どうすればより上手く行くか、検証する」
ためです。
「これが効いた。これを次回もちゃんとやろう」
「ここでミスった。どうすればミスを潰せるか」
「あのあれ、ああいうパターンがあるよな。それをちゃんとやればよりよく進むのではないか」
「あそこは危なかったな。次回はできればそもそもああいうのを避けられるようにしたいな。できなきゃ諦めて、次善の策として、ああいう目に遭っても何とかできるようにしたい。備えあれば憂いなし、だ」
「ではこれとこれとこれとこれをできるようにしておきましょう」
この手の推論、仕事では多々ある話です。(というか、ないとどんどん詰んでいきます)

ちなみにこれは、PDCAサイクルでいうとCheck(検証)Act(改善)の話をしています。(正確には、前半4つはCheckで後者1つはActの話になります)
PDCAサイクルはある程度正しいのですが、これにこだわると、実は最初はPlan(計画)抜きでDo(実行)-Check-Actをせねばならないことが多々ある、という現実は忘れ去られてしまいがちです。

世の中にはPlanから始まる作業と、Plan抜きで始まる作業があります。
後者でPlanをやると、時間だけ消耗して、何の成果にも寄与せず、ただの無駄になります。
そういうのを
「でもPlanは価値ある工程だから、作業の上でごみになっても、やるべき」
とは言えないでしょう。これは作業なんだから。

そして、Plan抜きで始まる作業での、推論の使いどころは、Checkになります。
意外にもこれが意識されていません。推論の使いどころはPlanであり、Checkではない、と思われがちです。そうではありません。

前半4つの話は全て
「そうである(前提)。だから、ああすれば(推論)、こうなる(帰結)、のではないか」
という構造の話です。見ての通り、推論の基本形がそのまま埋まっています。

というか、Checkの時点で推論をしなければ、Actなどやりようがありません。そのActは(これはPlan抜きで始まる作業なのだから、ただのPlan抜きの)Doと同じものにとどまります。
成功の勝ち筋も、失敗の危険性も、改善案も、リスク対策も、何もあったもんじゃありません。

そうしたら、その作業は、ひたすらDo-Do-Do-Do-失敗-故障-枯渇-破滅、です。
破滅に向かいたい訳でないなら、

  • 多少でも踏ん張って、

  • 時間的余裕を人工的に作って、

  • ありったけの回復手段を試してみて、

  • 少し頭を冷やして、

  • 精神的余裕を持って、

  • 思考がほぐれてきたら、

  • 少しずつでもCheckをしていき、

  • 実際にも少しずつでもActしていく

のが、中長期的には(何なら短期的即時的にすら)起死回生の手段になります。
そして、Checkの時点で、推論はちゃんと働かさねばなりません。
前半4つみたいな論法で、前提を集めて、結論を考えて、それがつながるような推論をする。
つながりに無理があるなら、無理なので断念する。
貫徹できそうなら、決定のための選択肢に入れておく。
これが、工夫ということのために、大きく効いてきます。

2.2.説明のためではないか

もう一つは、
「説明のため」
ということです。

人と人とは、大なり小なり、価値観も人生経験も大きく異なります。
自分の価値観が、ある場では全く通用しなかったりします。

また、自分の持たない人生経験を誰かが持っていて、自分のやろうとしていることに対して、誰かがその見地から
「それは、失敗するか、災禍をもたらすから、やめたらどうか」
と異を唱えることはしょっちゅうです。

とはいえ、最初はそう言われても納得がいかないでしょう。
逆に、自分が相手に納得してもらえないことも多々あるはずです。
だから、
「この世の出来事はこれこれこうであり、この世の成り行きはこれこれこうである。この二つを組み合わせると、これこれこうなりうる」
「それが嫌で、覆したいなら、これこれこうした材料を元に、これこれこうした手法でやっていかねばならない」
という話が、そのうちどうあっても必要になってきます。

つまり、これは説明、説得ということです。

上の二つは推論の体裁を取っています。前提と推論と帰結があるからです。

もちろん前提と推論と帰結にごまかしがあってはなりません。こうしたごまかしのある説明は、要はデタラメになってしまいます。これをする人と、長期的な信頼を結ぶことは難しいでしょう。
良くて
「あいつはいいやつだが、話は常に話半分に聞くべきで、決して真に受けてはならない」
という扱いになってしまいます。(たいていはもっと粗略に、何なら放逐されるべき敵として扱われるでしょう)
詐欺で当面生きていられて、貯金が作れる人のことは存じませんが、それ以外の路線を考えているなら、信頼はほぼ何をやるにも大きな支えになる地盤なので、デタラメのない説明もやはり、何をやるにも大きな頼りになる道具として、欠かせない手段になってきます。

検証の際に、他人に見てもらい、アカンところの指摘と、ちゃんと納得のいく説明を受けることは、改善のためにはとても大事なことです。
アカンところの指摘が、理由を説明できないいい加減な放言であることはしょっちゅうです。(というか、そういう放言を上から目線で無責任に投げかけたいだけの人はたくさんいます。福本伸行『カイジ』シリーズでいうところの、「安全」であることの愉悦、というやつです。そんなのは俺にだって分かる)
だから
「なぜアカンかちゃんと説明することもセットで指摘せえ」
とあらかじめ言っておくことが極めて重要になってきます。
そうでないと、ただ放言を投げかけたい人のおもちゃにされて、検証はデタラメになって、結局Do-間違ったCheck-間違ったAct-失敗-故障-枯渇-破滅、ということになってしまいます。
破滅に向かう道です。避けましょう。

2.3.他にも有用な目的があるかも知れない

まだ買えていないのですが、『「論理的思考」の文化的基盤』という本があります。

どうも、論理的思考合理性について、
「文化によって、論理的思考や合理性という概念に期待されているものがそもそも異なるし、それぞれの論理的思考や合理性とは例えばこういうことである」
という話がなされているようなのです。

そういう観点からすると、検証のためとか、説明のためとか以外にも、推論に期待されている有用な目的があるのかも知れません。

意思決定のため、という目的を、私は
「それができるのは繰り返し繰り返しPDCAをやれるときと、Planから始まる作業のときだけだ」
と狭く見積もっています。
しかし、その制約さえ守れば、意思決定のため、という目的そのものはおかしくはないのです。
Planから始まる作業では、Planは大事であるに決まっているのです。

きっと、他にも、いろいろあるのでしょう。
なので、暇が出来たら近々読んでみたいんですよね。

***

暇が出来たら?
なかなか出来ないんですよね…

11月の3連休、ちゃんと取れますように。
全部暇な時間として確保できますように。

だから、それまで、テキパキ頑張ろう。
頑張って暇を作るぞ!
とりあえずはそのために、ゴリゴリと推論を使って、手も動かして、作業をなるべく終わらせるんだよ!
そういう心意気で、やっていきたいと思いますね。
(何てオチだ)


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