随筆(2021/3/16):魔法と科学の対比を、もうちょっと広く考えてみる(3.現前の物の嬉しさがある「人の領域」と、理解の外の有難みがある「魔の領域」)
3.「神の領域」「人の領域(世俗系)」「魔の領域」「人の領域(科学系)」
3.1.「神の領域」「人の領域(世俗系)」「魔の領域」「人の領域(科学系)」
こうなると、魔法が科学がどうのこうのの話を、
・「目的物」の一種である、あると嬉しいもの(「財」)と、
・そのための「行為者」の一種である、「専門家」≒「技術者」≒「達人」と、
・それを支える「手段」の一種である、「技術」と、
・その背景の「法則」の一種にして集大成である、「学問」
(この順で「目的物」や「財」から迂遠になる)
と言う降下と、
・「学問」の一種であり、目的物としての実現を目指すための現実を反映した「科学」と、
・「科学」を反映した「技術」である「科学技術」と、
・「科学技術」を反映した「専門家」である「科学技術者」と、
・「科学技術者」がもたらした「目的物」である「科学技術的成果」
と言う上昇の話に、ある程度は帰着させたくなる。
***
「科学はいいが、魔法はどうした?」
と言われるかも知れない。
これは、
「こうして得られた8領域(注:後でさらに増える。この章だけでも12領域に増えます。マジかよ)を、粗々と大きめの4カテゴリに再編することが可能だ」
ということで、ある程度説明出来るようになります。
・「やりたいことを直ちにもたらしてくれる、有り難みのあるもの」は、「神の領域」。
・「そのために噛まされる、よく分からない、ちょっと面倒な、だがまあまあ有り難みのあるもの」は、「魔の領域」。
・「有り難みのない」「人の領域」。
なお、人の領域は、
・「最初からある程度分かっているから、あまり面倒ではない」「世俗的な部分」と、
・「世俗的なところや、魔の領域からもう一段噛まして、分かるやつには分かる(カタギは分からない)ようにした、クソ面倒なもの」である「科学的な部分」
の2つに細分化出来ます。これで4カテゴリですね。
で、「法則」のうち、「人の世俗の領域」として見立てられるものが「学問」で、「魔の領域」のものとして見立てられるものが、いわゆる「魔法」、という捉え方です。(そして「人の科学の領域」の「法則」が「科学」という位置づけになります)
どういうことか? それはこれから説明します。
3.2.神の領域の「財」たる「恩恵」「奇跡」「幸運」
恩恵や奇跡や幸運には、ものすごい有り難みがある。
欲しいものが現に得られているとしたら、そりゃあ有難いの極みに決まってる。
神的な存在に、感謝の一つも、したくなると言うものだろう。
もちろん、これだったら最高だ。
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だが、こんなもんいつもいつも得られる訳がない。
普通は、得るための行為が、というか行為者が要る。
また、それは、
「どうやって得られるか、明らかでない」
というのがふつうだ。
どうしたって、ある程度は、手段的ないし法則的な解明は、要る。
そう言う、どう考えても面倒臭いことを、やっていかねばならない。
この時点で、今ここにある即効性の有り難みは、一気に減ってしまう。
そんな面倒臭いものはもう、「神の恩恵」とか「神の奇跡」とか「天のもたらした幸運」とかとして呼びたいものではなくなる。
3.3.神の領域から、人の領域と魔の領域に零落する
3.3.1.神の領域から零落した魔の領域における「専門家」たる「魔術師」
そうした得体の知れない面倒臭いことを、誰か専門家がやってくれると、みんなはとても助かる訳だ。
とはいえ、得体は知れないし、面倒臭い。そして神の領域としての有り難みは損なわれる。零落した、魔の領域だ。
そういう領域にある専門家は、「魔術師」として、場合によっては有り難く、また、場合によっては気味悪く受け止められる。
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神の領域との密接さを主張する向きの魔術師は、群の中の、立派な、正統っぽい、受け入れられた立ち位置を得られるかも知れない。
が、彼らの地位はふつう、限られた椅子なので、多くの魔術師は怪しげな立ち位置に甘んじざるを得ない。
あるいは、そう言う外れものの魔術師は、何なら存在すら許されず、追放されるか、殺されるまであるだろう。
3.3.2.神の領域から零落した人の世俗の領域における「専門家」たる「技術者」
なお、これが、
「得体が知れなくはない、何となく分かる、と言う印象を受ける」
ジャンルなら、これは魔術師ではなく、ふつうの専門家、例えば何らかのふつうの技術者として扱われる(ここでは広く農業や畜産業や漁業などの一次産業の従事者も含むことにします)。
これは、いわば、「人の領域」、特に「世俗の領域」です。
もちろん、ここは曖昧な言い方で、実際には分からないことだらけです。
「なんとなく分かってもすンごくよく分かるわけねーだろが てきとー喋ってんじゃねぇぞ」
と自分自身に毒づきたくなる技術者はかなりいます(私もIT馬車馬やってる時はこんなことばっかりでしたね)。
そう言うときは、技術者はしばしば、しばしば熟練すべくひたすら鍛えるか、試すか、基礎から勉強するかして、人として、世俗の領域で、足掻くものです。
それでも、どうにもならない不確定な「得体の知れない」ところは残るものであり、だからこそ技術者は意外にも験担ぎをしたがるところがあります。要は、魔術師に頼ったり、魔術に頼ったりもする。
(驚かれるかも知れませんが、あることです。
「自分の腕だけで何でも上手く行くと信じてはいない、天候などの運があり、それは自分の腕だけではどうにもならない」
との理解を持つ技術者は非常に多い)。
3.3.3.人の領域における「手段」たる「技術」、魔の領域における「手段」たる「魔術」
そう言う専門家の持つ、やや上手くいった手段、即ち「技術」も、当然ながら
「なんとなく分かってもすンごくよく分かるわけねー」
ものがかなりある。
そう言う技術は、「魔の領域」の技術、即ち「魔術」として扱われる。
例えば、プログラミング技術は、分かる人には分かるが、多くの人にはいかがわしい魔術ですし、プログラマは怪しげな魔術師でしょう。
ITじゃない職場では、仕事効率が爆上げされ、仕事での滞りが猛烈に減るので、ひょっとしたら敬意を抱かれるかも知れないが、
「馬車馬として使い潰して、慰労金を払わなくていいような死なせ方をするのが、一番利益が大きい。
え? あいつは人間との共通項に乏しい、共感可能性のない、馬車馬、奴隷だろ?
奴隷が我々人間様のような顔をして人間様の福利厚生を受け取るんじゃあない」
と考える人たちも当然多い。
そう言う、呪われた技術でもある訳です。あームカつく。
3.3.4.人の領域における「法則」たる「学問」、魔の領域における「法則」たる「魔法」
技術の背景には、何らかの「法則」(ふつうは自然法則ですが、そうでない場合も多い)が流れています。
これに沿えば技術は上手く行きやすくなるし、これに逆らえば偶然にしか上手く行かなくなるものです。
だから、人は、法則を必要とする。そしてそれの集大成が、「学問」というやつです。
これは技術よりさらにクソ面倒で、しかも迂遠なものです。有難みに乏しい、零落した「人の世俗の領域」の、最たるものです。
何なら腕力よりも零落著しい。腕力は即効性があるから、そこの嬉しさは大きいからな。学問はそうではない。ここは前回書いたところなのでした。
とはいえ、これも前回も書きましたが、この手の面倒さに
「なんか魔術的なスーパーパワーが隠されているかもしれない」
と有難みを感じると、これは「魔法」として扱われます。
というか、しばしば、偶然よりはマシな「魔術」の理屈を知りたい、という理由から、法則の追求がなされるという側面もある。こうなるとマジの「魔法」だ。
とはいえ、もちろん、それはたいてい、やはり偶然よりマシというだけだ。元の魔術からして、元々そうなんだから。
一応は確かな技術の背景である学問と、だいぶ不確かな魔術の背景である魔法とでは、後者の方がどうしたって不確かになる。
理解の外の不思議な有難みはあるが、現前の物の確かな嬉しさには乏しい。
3.4.完全に人の領域に零落した「科学」
もちろん、現前の物の確かな嬉しさは、常にニーズがあり、求められている。
これを少しでも回復しようとする動きが起こったとしても、何ら不思議ではない。
特に、学問や魔法は、「いいから目的物や財を直ちに寄越せ」という話から、どうしても遠い。
「目的物や財をもたらすために、役に立つかどうか」という話は、何かにつけて問われる。
技術は「やりづらいものをやれるようにする」ために、学問は「分かりづらいものを分かるようにする」ためにある。
なので、学問に「役に立つかどうか」を要求するのは、それ単体で見ればお門違いだ。
だが、目的物や財がまず欲しい要望者からすれば、そりゃあ技術の方が嬉しいし、学問の方は嬉しくない。
彼らにとって、どちらがより「要らない」かと言えば、そりゃあ学問の方だろう。
まして、学問はしばしば技術の背景にあるし、基礎技術に効くと考えられているから要請されているのだ。
そう思いたくない人たちもいるだろうし、効くかどうかは場合によるとしか言えない。
だが、じゃあ、ますます、基礎技術に効かない類いの学問は、「要らない」と思われるし、そりゃあ自然な成り行きだろう。
魚相手に
「鳥になれ」
とは言えないが、せめて
「鳥が魚を味方だと思っていない」
ことは覚悟せねばならない。
しかも、喧嘩になった時に、実力があるのは、鳥の方だ。
「魚が、あたかも鳥であるがごとく振る舞わなければならない」
とはまるで思わないが、
「鳥に殺されないようにしなければならない」
というところから、何らかの処世はどうしたって要る。そういうものだ。
***
で、「役に立つ」と主張するためには、「役に立つ」ためのやり方をせねばならない訳だ。
例えば、仮説を立てて実験をして統計を取って適正な理論にする。というプロセスが、練り上がったりする。という風に。
が、それをやると、理解の外の有難みは、もうどうしようもなく消し飛ぶ。
そういう、どうしようもなく零落した人の領域として、「科学」があるんだよな。
科学は、神の領域から何段階か迂遠になった学問や魔法が、神の領域である「いいから目的物や財を直ちに寄越せ」という話に「寄せ直したもの」だ。
ここの話は前回したので、もう繰り返しません。
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なので。
そもそもの始まりである、即物的な「恩恵」や「奇跡」や「幸運」は、「神の領域」。
それを得るために、理解の外の有難みには乏しいが、現前の物としての嬉しさの大きいものとしての、技術者や技術や学問などの「人の世俗の領域」があり。
現前の物としての嬉しさとしては不確かだが、理解の外の有難みがあるものとしての、魔術師や魔術や魔法などの「魔の領域」がある。
これらを一気に、現前の物としての嬉しさが大きくなるようにして、理解の外の有難みを捨てたものが、「人の科学の領域」の、科学や科学技術や科学技術者や科学技術的成果である。
だいたい、こんなイメージで、科学や魔法を捉えることが出来そうです。
これはある程度説得力が(私の中では)あるんですが、どんなもんでしょうね。
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次回は、このモデルから漏れるが、無視できないものの話をします。
これをしたら、この記事は終わりになります。乞うご期待。(今回も終わらなかったの意(こいつ…))