新・解体する為に(病気でもいいじゃん)
詩集を出して一年が経つ。それと同時に、会社を辞めてから一年経過。
『療養』の必要があったので、会社を辞めて、社会から離れ、身近な人たちの支えのおかげで一年間を生きた。社会から離れた一年、何をしていたかというと、よく言えばのんびり、悪く言えばなーんにもしていない。のです。やらなきゃ、とか、やりたい、とか、そういう気持ちはたくさんあったんだけど。ね。
各所で言ってますが、辞めてからまず本が読めなくなった。好きな小説家の本も、詩人の本も、だんだん読めなくなっていって、最後は本を見るのが嫌になった。足しげく通っていたジュンク堂や古本市をなんとなく遠ざけて、お送りいただく本も「ごめんなさい」と謝りながら(時には本棚に頭を下げて)開けずにそっとしまう時期があった。
それから文章が書けない。ありがたいことに、こんな私に寄稿依頼が舞い込んだりもしたので、最初のうちはなんとか書いていたが、どんどん文章が書けなくなった。本が読めないので、書評依頼が書けなくなったこと、それについてどう説明すればいいのかわからず、未だにどう謝っていいのかわからないくらいなんですが。こんなところで言うことじゃないんですが。
他には家から出られないとか、電車に乗れなくなってしまったりとか、人に会いたくないとかなんだかんだと、うつ病のテンプレみたいなことをしていた。そんな私の病名は、一応「不安神経症」で「複雑性PTSD」ってやつなのだね。
まあ、そんなこんなで、社会から離脱して一年も経つから、いよいよ社会復帰をせねば!と思ったんだけど、復帰した時を想像すると、とにかく「人がこわい!」という感情が浮かんできた。(人間不信っていう、ざっくりした言葉でまとめておこう。人間不信とは、本当はちょっと違うのだけど)
会社を辞めた際、何年も通っているカウンセリングの先生に言われた言葉を思い出す。
「シオンさんの歯車と社会の歯車は、まわってるスピードが違うんだよ。うまく噛み合わなくなって、回るスピードが違うなら仕方ないんだから、会社を辞めた自分を責める必要は全くないよ」
要約するとこんなことを言われて、なんだかすっと、納得できた。私の歯車はまだ錆がすごいから、今急いで社会に出る必要はないんだな、と思い直した。それは最近のこと。錆に錆びてる心の歯車を、一生懸命メンテナンスしている最中で、すぐに錆が取れないなら気楽に掃除しようよ。と、いい聞かせて納得している。
※
今まで社会にしてきてもらったことを還元していくことが働くことだ、と何かで言っていたのを聞いた。ふむふむ。確かにその通り!プレゼントされてばっかりでお返しをしないなんて。そうだよなあ。ふむふむ。だから早く働かなきゃ、社会に還元していかなきゃ!なんて。
だけど、どうやら、私は『会社員』として還元していくことは難しそう、というのが結論。何故ならば三回も転職していて、スーツもハイヒールも丸の内おーえる(偏見かしらごめんなさい)もダメなんだと、三回の転職でようやく気付いた。(なんでダメかはまた今度)
それぞれ役割があるのなら、私は違う形で与えられたものを返していこう、それは言い聞かせてるのではなくて、本当にそう思っている。誰しも役割があるのなら、私はたぶん『おーえる』ではない。何かもっと違う形だ。
私のように心がぼろぼろになってしまって、だけど誰にも言えなくて、会社を辞めたり、辞めようか悩んでいたり、社会と足並みをそろえることがつらくなったり、何が何だかわからないけどとにかくつらかったり、そういう人たちに、私の言葉や、詩が、どんな形であれ、届けばいいな。そう思うようになってきた。のです。
それはやっぱり、私の詩集を読んでくれたある女の子が「私の事が書いてあると思いました」と、そう言ってくれたことが、一番大きい。そんな言葉、思いもよらなかった。だって、あの詩集は、私が私の為に書いたもので、なんなら私のことしか書いてない。「私つらくてしんどいよもう嫌だよ!」的なネガティブ発言のオンパレード、暗い言葉ばっかり。それに共感してくれる人がいるなんて。素敵な発見をありがとう。今でも感謝しているよ。
発信すれば、言葉はわたし以外の誰かのものになる。どんな解釈をされてもいいし、どう受け取られてもいい。ただ「私の事だ」と思ってくれて「こんな女もいるんだな、ぷぷぷ」と思えて、気持ちが楽になればそれがいい。
楽観的でネットリテラシーの欠片もない二十九歳が、己を解体して、そうしてそれが、あなたのためになるのなら、私は私を解体する。
(詩集はAmazonで絶賛発売中ですとこっそり)
これがわたしのふつうです
もうちょっと頑張れよ、とか しょうがねえ応援してやる、とか どれもこれも励みになります、がんばるぞー。