統語的殺害──安倍晋三の、たいへん意義深い死によせて
西暦2022年7月8日、件の報に接した夜、筆者は以下の通りふたつの予想を立てた。
1:今回の事件は「日本における民衆による極小規模の叛乱行為」と見做されるべきであり、まず間違いなく実行者の動機としてカルト宗教(もちろん国家神道を含む)が関わっている。
根拠:「日本における民衆の叛乱行為」を考えるとき、そこには絶えず世界宗教的な思想の痕跡を認めずにはいられない(天草四郎や大塩平八郎の蜂起がどのような思想を根拠としていたか、いまさら述べるまでもない)。しかし西暦2022年の日本においては、世界宗教に内蔵された政治的情動を正しく担える者の存在などまず考えられず、さらに元自衛官という実行者の経歴も参照した上では、実行にいたらしめた機制は国家神道に由来するものであったろうと考えるのが妥当である。
2:上述の予想を踏まえると、実行者の動機は「自民党(元)党首の殺害による皇室威信の回復」とでも呼ばれうる、自暴自棄な妄想に由来しているはずである。
根拠:安倍晋三を射殺するに十分な動機を抱くことができる者がいるとすれば、最もありふれた例は天皇(家)への過度な移入が常態化した者であり、西暦2019年の明仁「生前退位」セレモニーあたりを端緒として「与党による皇族の私物化」への私憤を溜め込むあまり「私の手で奸賊を誅することにより陛下の威光を取り戻す」的な捌け口を得て爆発した、とすれば理解は容易い。もちろん中井久夫氏の謂う「君側の奸コンプレックス」を念頭に置いており、加えて菊地成孔氏による “安倍首相以下、自民党幹部を乗せた先頭の車両は、これまた目視によれば、ウインドウは360度、総防弾ガラスであったと思うのですが、陛下と皇后が頭部から上半身がむき出しだったのにも関わらず、自分たちは防弾ガラスの箱の中に入っていたのは、何もなかったから良かったものの、もし万が一、命がけのテロリストが銃弾で陛下の乗られているオープンカーを発砲した場合、「自分たちは防弾だったから助かった」という構図になってしまう事は考えなかったのか。と思うばかり。” という「生前退位」セレモニー時の警備欠陥の指摘も傍証としてある。
以上、ふたつの予想のみを浮かべてその日は眠ったが、続報が届くにつれ、実行者が語る限りでは、「統一教会の信者であった母が多額の金銭を巻き上げられており、その環境こそが自分をして教会の幹部または教会との癒着甚だしい政治家の誰かを殺害しようと思わせしめた。殺害対象として選んだ安倍晋三への政治的意見は特に無い」というのが実際らしかった。
つまり、両予想の中間だったわけだ。実行の動機としてカルト宗教が関わってはいるが、国家神道ではなく統一教会。皇室のような既存権力への移入および合一化ではなく、統一教会または癒着政治家たちへの怨恨。
今回の事件から抽出し保存しておくべき知見は、主にふたつである。
1:西暦2020年代の人間(とくに日本人)は、もはや被搾取の念においてしか fatal な何事をも為し得ないのだという事実。
2:ハムレット&マクベス問題。
2には注釈が必要だろうから、先に1から済ませよう。
読者はご記憶だろうか? 西暦2019年7月18日、放火により京都アニメーションの第1スタジオが全焼した事件。「もちろん憶えてるよ」って? では犯人が供述していた動機も憶えているだろうか。それは、「(京都アニメーション制作の作品内で)自分が書いた小説を盗まれたと思ったから」。
自分がかつて執筆し、京都アニメーションの主催する新人賞に応募した小説、その内容に酷似した作品がアニメとして発表されていた……という妄想に取り憑かれた者が、3年前の夏にあの事件を起こしたのだ。ここにあるのは紛れもない被搾取の念である。「あいつらはおれの自信作を評価しないばかりか、バレないと思って無断で作品にしやがった。おれの小説を盗む奴らなんて許せない、放火してやる」。
今回、安倍晋三狙撃を実行した者はどうだろうか。「あいつら統一教会は母さんの金を巻き上げて、おれの一生も台無しにした。しかもおれは今でさえその教会の分派に属してるんだ。こうなったらあいつらが聖なるモノだと呼ぶ銃器で一発報いてやろうじゃないか。」現時点での報道から読み取れるのはこのような人物の姿である。そこで燃料となっていたのもまた被搾取の念以外の何物でもない。労働、金銭、上位ヒエラルキーによる詐取。すべてヘーゲル→マルクス→ラカンの理論で説明できる、きわめて20世紀的としか言いようのない搾取の構造ではないか。
今回の事件は、3年前の京都アニメーション放火と同じ、一方的な被搾取の念に取り憑かれた典型的な時代精神の甘受者が起こした惨事であり、特別な真新しさなど何もない。もちろん「政治的な事件ではない」などと言っているのではない。逆だ。信仰(そもそも「信仰」などという語を使う必要があるのはカルト宗教の信者だけで、世界史上における意義と理論的基盤を持つ世界宗教の内部者は──よっぽど醜く世俗化してさえいなければ──「信仰」などとは無縁に、各々の教えを当然に政治的なものとして生きている)・金銭・個人史上の親子関係など、人間を個として在らしめる政治的条件すべてが被搾取の念に一本化されてしまうような、そんな見るも無残な人間の在り方が常態化したのがこの国の(politic などと狭義に限定されない、真なる意味での)政治的状況であり、それを強調する結果となったのが今回の事件だ、と言っているのである。
たとえば、ちょっとnoteを検索するだけでこういうのが見つかるわけだ。この子はなにか、スマートフォンゲーム? でレアカード? を入手する特権みたいなのを、そのゲームに演者として参加している声優が不正に享受したとして憤激し、このように湿度の高い泣き言をわざわざ World Wide Web 上で公開してくれているわけだ。
せっかくゴミ漁りをしたわけだから、本稿においても分析の助けとなる症例のみを取り出しておこう。まず、「自分が愛しているものから搾取されている」という状況を踏まえることが重要だろう。「おれより報われているあいつが許せない、おれのほうがあいつよりあの方のことを愛しているのに」。この「おれ」をオタクくんに・「あいつ」を声優に・「あの方」をゲームに置き換えれば、そのまま被害妄想の典型例における三角形が成立する。もちろん「おれ」を愛国者に・「あいつ」を政治家に・「あの方」を皇室に置き換えたらそのまま「君側の奸コンプレックス」に相当するし、「おれ」を狙撃者に・「あいつ」を統一教会幹部および癒着政治家に・「あの方」をあり得べきだった母との思い出あたりに充当すれば、今回の事件を惹起した機制そのまま、ということになるだろう。
上述した被害妄想との関連で、2:ハムレット&マクベス問題への言及が可能となる。
妄想には一般に、他者と共有可能なものと、個人内で完結した共有不可能なものの2種類がある。前者がハムレット・後者がマクベスであることは言うまでもないし、前者が安倍晋三であれば・後者は狙撃者のほうである。
思えば、安倍晋三の掲げたスローガンが「美しい国へ」・「『強い日本』を取り戻す」等であった時点から、今回の帰趨に到る道は準備されていたとしか言いようがない。菊地成孔氏がかねてより指摘していた、 “「アベノミクス」という語はともかく、その「三本の矢」という言葉遣いは、換喩表現として100%間違っている。(中略:そもそも「三本の矢」の故事は)団結力の称揚と言う意味であり、アベノミクスが話題に上る際に使用されたように「第一の矢」「第二の矢」等と言ったら、誤用どころか完全な逆接である”* ようなカジュアルな日本語誤用を気にも留めない程度の知性の持ち主である安倍とその支持者は、「どのような状態から? どのような方途で? 美しい国を実現させるのですか?」・「どのように『強い日本』を? いったい誰または何から? いつからいつまでの期間に? 取り戻すのですか?」と、一般的な統語法の観念からすれば当然追及される問いを無視するどころか、むしろカジュアルなキャッチコピーを次々と編み出す自分自身の存在に自足し、その文法的無能力によって説明責任を永遠に免除され続ける特権を享受してきた。
つまり、安倍的な穴だらけの日本語話法は、その穴を支持者たちが勝手に忖度して埋めてくれるという唯その一点のみに力づけられ、爆発的に伝播し、(支持者のみならず凡庸な国民の間においてさえも)共有可能な属性を付与されるに至ったのだ。喩えるならば、原作の出来が穴だらけなアニメであればあるほど二次創作がしやすい、といった事態だろうか。なんともクールジャパンなことである。
*『ユングのサウンドトラック(ディレクターズ・カット版)』菊地成孔著・河出文庫刊 36-37P
狙撃の実行者は逆だった。彼の妄想体系は統語的に一貫している。「大切な母さんの人生から、お金と生活を奪っていった、統一教会とその幹部に対して、今日、僕は、銃器を使用し、教会と懇意にある安倍晋三を殺害することによって、報復します。」完璧だ。主格、目的格、時制、行動、方法、文中で出てくる名詞すべてを包含する関係性など、非の打ちどころがなく合理的である。しかしその理が狂っている。彼の妄想は自身の内部のみで完結してしまっていたがゆえに、安倍および支持者たちのそれとは違い、他者との共有可能性を全く持たないものとなってしまった。
この二態の差異こそが、ハムレット&マクベス問題である。
ハムレット=安倍は、「うちゅくちぃくにぃ……にほんを、とぃもどさなきゃいけないんだけど……でもだれからどうちてとぃもどちゃなければぃけなぃのかなぁ……ぅぅん……おじぃちゃまおちえてぇ……」と亡霊に悩まされながらもホレーショ=支持者たちに励まされ、あえて狂気を装ったりいきなりキレたりするうちにホンモノの妄想の虜になってゆくわけだが、マクベス=狙撃者は違う。彼はすでに魔女の予言を聞いてしまい、自身を律するリミッターが完全に外れてしまっているために、次々と湧き上がるプランの作成と実行を止めることができない。そして最終的な目的は、自分自身を含む世界もろともに消滅することなのだ。
以上の例から、
・統語法に破格を抱えたハムレット的妄想は、周囲がその穴を埋める余地があるために共有可能であり、大衆ヒステリー的支持を獲得することさえある。
・一方、統語法的に一貫したマクベス的妄想は、その着想から実行に至るまで個人で完結しているために共有不可能であり、その(本人のみにとっては)理路整然とした行動が導く結果は、ひとえに自滅である。
・よって、安倍晋三が狙撃を受けたのは、ハムレット的妄想の支離滅裂性がマクベス的妄想の冷徹性によってピリオドを打たれるという、統語的殺害とでも呼ばれるべき因果の表出であったと言えるだろう。
という妄想症の類型を抜き出すことができなければ、今回の事件も単なる茶番として風化してしまうだろう。何しろ、この国の民草の忘却力は物凄い。こうして筆者が筋道立てることがなければ、そもそも3年前の夏に全く同じ被搾取妄想での凶行が起こっていたことさえ思い出すことができたかどうか。
当然ながら、今回の事件によって民主主義が傷つけられたなどという詠嘆はまったく当たらない。民主主義は最初から血まみれだ。人民[デモス]の支配[クラティア]を語源として古代ギリシアの政治体制に由来を持つのだから当然だろう。ここ数日間ずっとネット上で悲憤慷慨している無邪気な輩どもは、これを好い機会として、せめてサラミス海戦後にテミストクレスがどのような運命を辿ったかだけでも勉強するがよい。最低限度の古典の教養さえあれば、そもそも古代ギリシアの時点で、民主主義の本質と呼べそうなものは「全人民の武装」および「人民によって権力者と見做された者への一方的な迫害」以外には無かった、ということが理解できるだろう。
たとえ「民主主義」の起源をフランス革命後にまで切り詰めたとしても結果は同じだ。まさかロベスピエールがしたことすら踏まえずに自分を「民主主義者」などと呼んでいるわけではあるまい。その政治体制は最初から流血とは切っても切れない由緒を持つのだ。であれば自称「民主主義国家」の政治家だか大統領だかが何人殺されようが、真なる意味での民主主義には傷ひとつ付かない。たかが世襲議員が殺されただけでわたしたちのみんしゅしゅぎがきずついたあなどとワンワン泣き喚くような輩には、民主主義を口にする資格など最初から無かったのだ。順当に「重商経済に迎合するネオ封建制」とでも呼んでおけばよかっただけの話だ。
そしてもちろん、今回の事件は「テロ」でもない。すでにロベスピエールの名は出したから繰り返さないが、政治的様相としての “Terreur” は「党派の独裁による具体的な個々人の廃棄」を指す。京都アニメーション事件の時点でさえあの凶行を「テロ」と呼んでいる輩どもがいたが、事件の因果性から見てあれは「身内(オタク)による身内(オタクオリエンテッドな企業)へのヘイトクライム」以外の何物でもない。今回の狙撃事件もまた、「身内(統一教会関係者)による身内(統一教会と癒着関係にある政治家)へのヘイトクライム」である。もしこれらの例が「テロ」と呼ばれうるとすれば、「京都アニメーション放火後、犯人が単独で会社の全権を掌握し、自分の思い通りのアニメだけを製作させようとする」か、「安倍晋三射殺後、狙撃者が自民党首となり、統一教会を初めとする私怨を抱えた団体及び個人を排斥し始める」かしなければ、必要条件を満たしたとは到底言い得ない。単に罪責感を洗うための流水として「テロ」のカタカナ2文字を使いたがることがいかに倒錯した所作であるかについては、すでに菊地成孔氏が何年も前に書いている。繰り返すが、「民主主義者」を自称するのならば、せめて自分が握らされている武器がどのような性質のものであるか程度は理解しておくべきだ。
もちろん、安倍晋三の「ご冥福」を祈る必要もない。地獄で千年焼かれても許されないほどの冒涜を働き続けた政治家であることは、民主主義者であれば当然周知のことだろう。と、この段落のみを読んだ故人の支持者は、「殺害された人に対して哀悼の言葉を捧げることすらできないなんてお前は[任意の罵倒語]」と血相変えて言い募ることだろう。では、こちらからも言わせていただこう。
「ご冥福」と言うからには、その話者は死後の生が在ることを前提とした世界認識の持ち主である、ということになる。もちろんそのこと自体は問題ない。私も世界宗教の信徒であるからには、聖典を引用しながら私の前提とする死後の生がどのようなものであるかを説明することができる。では、故・安倍晋三の支持者の諸君。聞かせてくれないか。君たちは一体、どのような宗教の、どのような死生観に基づいて、近代民主制の歴史と国民の存在そのものを冒涜し続けた世襲政治家の「ご冥福」を信じることができるというのかね? 当然答えられるだろう? 年末にクリスマスを祝い、正月に神社へ詣で、親戚が死ねば坊主を呼んで戒名をもらうなどという、君たちの倒錯しきった(というか単なる愚昧性に支えられた)「信仰」の在り方は、私のように単に物事を筋道立てて考えることしかできない凡庸な理性の持ち主には、とても理解いたしかねるのだよ。
さて本稿は、安倍晋三狙撃事件をめぐる顛末から、被搾取の念に駆り立てられた悲惨な個人の在り方が、醜悪な封建制と滑稽なカルト宗教の存在に衝突することにより、如何に凡庸な流血がもたらされるかを筋道立てた。それらすべては、この国の全く空無化した宗教の在り方に元凶を持つ。今回の事件に際しても「政教分離の原則」をしきりと叫ぶ声が聞かれたが、その「政教分離」こそが全く世俗化したキリスト教の内部にしか存在し得ないことくらい理解しておくがいい。
そして私は、この「世界最大のプロテスタント国家」こと日本においても、より良い未来が到来することを確信している。それは民主主義を諦めることにも与党に同情票を投じることにも依らない。くだらないイメージに翻弄されて被搾取の念に苛まれ続けるような悲惨を拒絶する人間の在り方は、絶対に成立しうるのだ。
どのようにしてか? そんなことをタダで教えるわけがないだろう。
少なくとも、本稿の読者よ。ここまで読んでくれたことに感謝する。いつかまたずっと良い場所で会えるだろう。しかしそのためには──「人間が生きながらえるためには国家が必要である」などという迷妄を、まず打ち砕かなければならない。
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