柴崎友香著『百年と一日』
週末、行きつけの飲み屋に向かうため、いつもと違う電車に乗っていた。
帰宅ラッシュ時間帯の電車は混んではいたが、コロナ禍で在宅勤務や時差通勤という事情もあるのか、以前のような身動きもとれない状況ではなかった。
途中の駅で一人の若い長身の男性が乗ってきた。
彼はずっと静かに立っていたのだが、数駅を経た後の駅で通過電車を待つため数分の停車をした際、突然、怒りをぶつけるようなゲンコツで力強く手摺を殴り、無言で降りて行った。
私を含め彼の周りにいた人々は、いきなり目の前で起こった事態を理解できず、呆然と立ち尽くしたまま、自分一人が目撃したわけではないということを確かめ合うように、不安な眼差しを他の乗客に向けることしかできなかった。
車内は相変わらず混んでいたが、まだ彼の狂気が残っていると感じてしまうのか、彼が去って空いたスペースに移る人はいなかった。
彼は何故そういった衝動的な行動に出たのか?
いや、「衝動的」というのも、彼の(我々の側から見ると)唐突な行動からの印象であって、彼の中ではそれ以前から何かが蓄積されていたのかもしれない。
理由もわからない。
車内で彼しかわからないような不快な事があったのか。
電車に乗る前に遭った嫌な事でも思い出したのか。
結局、彼の行為の理由も、彼がその後どうしたのかも我々にはわからず、ただ悶々とした気持ちのまま、発車した車内に取り残されてしまった。
次の駅で乗ってきた人が、彼のいたスペースに立った。
その人は前の駅で何が起こったのか知らないし、そこだけ空いていたことにもきっと疑問を持っていない。
そして我々も、スマホの画面に目を移したり、この後の予定に思いを巡らせている間に、彼の行為など簡単に忘れてしまう。
電車を降りる時に、「そういえば……」と、彼に思いを馳せる人はいない。
翌日、芝居を観に行った。
2020年冬はどの劇場もそうだったが「新型コロナウィルス感染拡大防止」のため、厳重な警戒態勢が敷かれ、我々観客にも相応の対処が求められていた。
それでも芝居を楽しみたい観客が方々から集まり、求められた対応に粛々と従う。
私は劇場の座席に着いて開演を待つ間、読みかけていた柴崎友香著『百年と一日』(筑摩書房、2020年)を開く。
本書は、一話が10ページにも満たない短編集で、そのほとんどに内容を要約しているかのような長いタイトルが付けられている。
たとえば、今読んでいる話のタイトルはこうだ。
「国際空港には出発を待つ女学生たちがいて、子供を連れた夫婦がいて、父親に見送られる娘がいて、国際空港になる前にもそこから飛行機で飛び立った男がいた」
本を閉じる。私の世界は空港から現実の劇場に引き戻される。ほぼ満席だ。
そういえば、劇場にも、『なにもせずただそこにいるだけの人が存在しない』。
スタッフたちは今から始まる芝居のために観客を誘導したり、舞台裏で作業をしたり。楽屋ではこれから舞台に上がる演者が準備をしていたり。
劇場には、そういった『自分の仕事をしている人』か、私のような「芝居を観に来た人」しかいない。
ここにいる誰もが「芝居」のために集っているが、お互い、どんな事情や想いがあってこの場所にいるのか、わからない。
『全然説明されないというか、わけの分からないまま』である。
なのに、誰もそのことを気に掛けない。
これが「日常」である。
『百年と一日』は、そういう物語集である。
「一年一組一番と二組一番は、長雨の夏に渡り廊下のそばの植え込みできのこを発見し、卒業して二年後に再会したあと、十年経って、二十年経って、まだ会えていない話」、「たまたま降りた駅で引っ越し先を決め、商店街の酒屋で働き、配達先の女と知り合い、女がいなくなって引っ越し、別の町に住み着いた男の話」、「商店街のメニュー図解を並べた喫茶店は、店主が学生時代に通ったジャズ喫茶を理想として開店し、三十年近く営業して閉店した」
本書に収められた物語のタイトルをいくつか挙げてみたが、本当にそういう話なのである。
ただ誰かと誰かが出会って、でもそれ以上関係が深まったり何か事件が起こることもなく、淡々と時間が過ぎていき、唐突に終わる。
或いは、世界のどこかの場所に人がいたり、ただすれ違ったり、そこに建物が建ったり壊されたり、そこに住む人がいたり、いなくなったり。
どの物語も、どうしてそうなったのか説明されないし、その後どうなったのかも教えてくれない。
唐突に別の人や時代が違う人が出てきても、その理由やお互いの関係性は特に説明されないし、それが物語の駆動力になるわけでもない。
時々、電車の手摺を殴った男性に遭遇したような出来事も起こるが、それは物語において重要なことだったり、物語を展開する要素にはならず、現実の私がそうだったように、何の事情もわからないまま、すぐに別のことに気を取られ、やがて忘れてしまう。
そうやって物語の時間は進んだり戻ったりし、唐突に終わる。
いや、終わるのではない。
そもそも、物語の始まりが時間の始まりでもない。
それぞれの物語が始まる前にもその場所やその人は存在していたし、短い物語が終わってもその場所はあって何かが建ったり壊されたり誰かが住んだり、人もまたどこかに行ったり去ったり、誰かと出会ったり別れたり、している。
本書は「日常」である。
登場人物たちは、物語の展開や結末を示唆するような言動はしない。
というか、登場人物たちは普通に「日常」を暮しているだけなので、物語を展開するような言動をしようがない。
他の登場人物のことも殊更気に掛けないし、自身が遭遇した出来事をいちいち意味づけしようともしない(「そういえば」とぼんやり思い出すことはあるが、それは随分経ってからだ)。
本書の帯に『作家生活20周年の新境地物語集』とある。
その新境地は、『目の前にある現実ってこんなに変だ、こんなに驚異的だ、ってこと』を書き続けてきたことによってたどり着けた場所なのだろう。