2021年夏・東京~谷崎由依著『鏡のなかのアジア』より「国際友誼」~
2021年7月末。
1年遅れの五輪開幕により「突如出現した4連休」明けの東京郊外。
朝の通勤の印象は連休前とさほど変わらず、「五輪という『祝祭』」の雰囲気はどこにも感じられなかった。
電車内でもスポーツ紙はおろか日経新聞でさえ開いている人はおらず、だから五輪関連のニュースを目にすることもなく、東京で開催されているという実感は湧かなかった。
鞄から本を取り出す。
本を取り出すのは日常だが取り出す本はその時々で変わり、その日は読みかけの谷崎由依著『鏡のなかのアジア』(集英社文庫、2021年)だった。
その本はアジアのどこかの場所を舞台とした「奇譚」を書いた短編集で、その時はちょうど日本を舞台に大学生たちが登場する物語「国際友誼」という物語を読んでいた。
夏の京都。
とある大学サークルが所有する「ほとんど小屋」の建物で、「パーティー」と称する単なる飲み会が行われる。
料理を作るのは留学生の「ソウくん」。彼は、自分の国で家族と食べていた魚入りの鍋を日本の学生たちに振る舞うつもりだ。
手伝いを買って出た日本人男子学生が「パーティー会場」に着いたときには、気の早い学生たちが既に飲み始めていた。
途中駅で人が乗り込んでくるが、若干少ないような気もする。
それはきっと五輪ではなく、学生たちが夏休みに入ったからだろうと思ったのは、読んでいた物語の影響かもしれない。
東京の大学生も物語のように、夏休みに「パーティー」をするのだろうか?それとも、地方から来ている学生が多い東京では、みんな帰省してしまうのだろうか?
だが、いずれにせよ、2021年の今年は『靴ばかりが二十も三十も土間に散らばっている』ような集まりはできないだろう。それはとても寂しいこと…いや、悔しいことなのかもしれない。
物語は途中だが乗換駅が来た。本を閉じ一旦鞄に戻す。
違う鉄道会社の電車に乗るため数分、地下道を歩く。
見慣れない警備員風の男性が目につく。
バタンバタンと派手な音がする方に目を向けると、その警備員風の一人がコインロッカーの扉を片っ端から乱暴に開け閉めしている。
…これが、初めて実感した「東京オリンピック 2020」だった。
乗り換えた電車はさらに都心を目指す。
しかし、その乗客の誰一人として「祝祭感」を纏っていない。
(過去は変えられないので好きではない言葉だが)本来なら、たとえ通勤時間帯であれ、もっと祝祭感があるはずだった。それが2020年でも、2021年でも。
見たことのない民族衣装のようなものを纏い、聞いたことのないような言葉を話す人々が、名前やどこにあるのかさえもわからない国や地域から賑やかに、祝祭感を東京へ運んできてくれるはずだった。
彼ら/彼女らは自分の国や地域の選手を応援し、勝てば派手に喜び、負けたら負けたで派手に嘆くだろうが、いずれにしてもそこには祝祭感が溢れていただろう。
知らない国や地域の人たちだけではない。
その祝祭感は、近隣の、名前も場所も知っている国から来た人々もきっと纏っていることだろう。
近隣なのに、相互がコミュニケーション不全になっている国々…
再び鞄から取り出した本を開いた。
留学生の「ソウくん」が鍋に入れている魚は日本では一般的ではないが、日本の学生たちに食べさせたい一心で苦労して手に入れた。
祝祭感を運んできてくれる彼ら/彼女らに英語は通じるだろうか?
いや、そもそも英語が通じる必要などあるだろうか?
彼ら/彼女らの言葉を「誼」として感じ、同じように返すだけでコミュニケーションできるのではないか?
そもそも「言葉」とは何か?「伝わる」とは何か?
「パーティー」の喧騒から少し離れた場所に日本人女子学生が座っている。
本を鞄に戻し電車を降りた。
それから今日まで、「東京五輪」の祝祭感は得られていない。
誼:よしみ。したしみ(goo辞書より)