「ヨコハマメリー」がいられた時代
私は横浜に縁がないので知らなかったのだが、かつて、横浜・伊勢佐木町に顔面を歌舞伎役者のように真っ白く塗って白い姫様ドレスを着た小柄な老婆が、いつも街角に立っていたのだという。
「都市伝説」ではない。実在の人物だ。
「白塗りおばけ」「ホワイト仮面」「皇后陛下」「キンキラさん」など、世代や地域によって様々な呼び名があるようだが、伊勢佐木町ではだいたい「メリーさん」で通じるようだ。
彼女がいつからここにいるのか。誰も知らない。知らないけれども、異様な風体の彼女がここにいるのは、当たり前の日常風景で誰も気に留めたりしなかった。
だから、彼女が突然いなくなっても誰も気がつかなかった。気がつかなかったけれども、なんとなく感じとっていた。
このできごとをきっかけに、10年近くの取材・撮影期間を経て、2006年に公開されたドキュメンタリー映画『ヨコハマメリー』のリバイバル上映を、2021年2月21日に川越スカラ座で観た。
2020年にアップリンク渋谷で既に観ていた映画だが、今回、中村高寛監督のオンライン舞台挨拶があると聞き、スカラ座に行った。
私がメリーさんのことを知ったのは映画ではなく、たまたま書店で手にした、檀原照和著『白い孤影 ヨコハマメリー』(ちくま文庫、2018年。以下『白い孤影』と略す)だった。
しばらく後、偶然リバイバル上映されることを知り、映画を観た後、中村監督自ら映画の取材・撮影記録を綴った『ヨコハマメリー 白塗りの老娼はどこへいったのか』(河出文庫、2020年。以下、『白塗りの老娼』と略す)を読んだ。
どちらの本も、主人公であるメリーさん不在で進む。
「誰にも頼まれていない」のにも関わらず、「いなくなってしまったからこそ気になる」「メリーさんとは一体何者だったのだろう」という個人的興味からスタートしているのである。
興味深いのは、どちらもメリーさんの消息を探す話ではないことだ。
とはいえ、2冊の本は、趣が全く異なっている。
「メリーさんは一体何者なのか」という観点でいえば、『白い孤影』の方が忠実である。
対して、『白塗りの老娼』は、「メリーさんのいた時代と横浜は一体何だったのか」に主眼が置かれ、取材過程で調べた横浜の近代風俗史や、横浜が開港からどのような歴史を辿ってきたかに紙幅の多くが割かれている。
違いの理由はいくつも挙げられるだろうが、特に『白い孤影』は映画公開後に出版されていることも影響していて(本文中でも映画に言及している)、「映画とは違う情報・違う解釈、映画では触れられなかったこと」を書こうという意識が強いように感じる。
だが、それは結果論で、結局、両著者の出自の違いが大きいのではないだろうか。
中村監督は横浜生まれ・横浜育ちで、物心ついたときからメリーさんは日常風景の中にあった。
対して檀原氏は東京生まれで、1995年秋に横浜に転居してきて(両本にある通り、メリーさんは1995年冬に横浜からいなくなった)、1997年に彼女のことを知ったという。
中村監督は先のオンライン舞台挨拶で『横浜の人は自分の歴史とセットでメリーさんを語る。いきなり個人的なことを訊ねると拒否されることが多いが、メリーさんを媒介にすると色々話してくれた』と話していた。
同様のことは檀原氏も感じている。
つまり、中村監督にとってメリーさんを取材することは自らの「人生を振り返ることでもあった」はずである。
中村監督は、オンライン舞台挨拶で『最初はメリーさんに興味があったが、(取材対象者の話から)人や横浜の歴史に興味が移っていった』というような発言をしていた。
だから、映画では、メリーさんはただその前に立っていただけの伊勢佐木町の根岸屋を巡る話を執拗に掘り下げているし、「横濱御座敷芸者を守る会」での現役「横濱最後のお座敷芸者」五木田京子さんの演奏を映したり、後半は永登元次郎さんの物語かと思うほどになっている。
たぶん映画は、「メリーさんはどんな人だったか」ではなく、メリーさんの人生と彼女に関わった人たちを追うことにより、「横浜がどんな歴史を経てきた街で、そこで人々がどんな風に生きてきたのか」を検証する方を選んだのだろう。
その裏には、中村監督が「自分が生まれ育った時代の横浜が失われてゆきつつある」と危機感を持ち、「今のうちに風景・風俗を記録に残したい」という気持ちもあったのではないだろうか。
それはきっと、『白い孤影』の檀原氏も同じで、メリーさんの実像に迫ることにより、自身が生まれ育った時代というものを辿り、記録に残そうとしたのではないだろうか。
かつて、横浜だけでなく、全国各地にメリーさんのような人がいた。
そんな人々を、街の人たちは積極的に関わらない代わりに、排除もしなかった。
色々下世話な噂話のネタにはされていたが、でも、心底嫌悪している人は少なかったような気もする。
私は子どもだったからよくわからなかったが、今考えてみると、皆、どこか「敗戦」というものを引きずっていた気がする。それは噂する側も同じで、だからどこか共感(というか、同情かもしれない。無邪気にちょっかいを出す子どもたちを「あの人はかわいそうな人だから」とたしなめていた記憶もある)する部分があり、排除しようなどと思いもしなかったのではないだろうか。
2021年、敗戦はとっくに歴史上の過去になり、経済と科学文明が異様に発達した。
その中で我々は、以前の拙稿でも書いたように「安全で清潔な街」を作り上げた。
別に「昭和」を賛美するわけではないが、しかし、その過程で、人間同士のふれあいや人情といった、大切なものまで失ってしまったような気もする。
ヨコハマメリーを巡る映画と本。
彼女を追いながら私は、知らず知らずのうちに振り落としてしまった、でも残しておくべきだった「良き昭和」を思い起こしていた。
※映画『ヨコハマメリー』はDVDで発売されています