幼い頃の奇妙な記憶~呉明益著『歩道橋の魔術師』~
1970年生まれの私が子どもだった頃は高度経済成長期で、生まれ育った田舎町にも新興住宅地が増え、色々な場所から様々な人々が流入してきた。一方で、まだ戦後を引き摺っていて、近くの川沿いの土手などにはバラック小屋で暮らしている人たちがいたり、所謂「部落者」と呼ばれていた人たちも日常的に見掛けていた。
まだインターネットどころか、テレビ局さえNHKと民放1局程度であり、しかもテレビのチャンネル権も新聞も大人のもので、私たち子どもは、数だけは大勢いる近所の子どもたちと外で無邪気に遊んでばかりだった。
そんな日常を暮す私たち子どもは知識も経験も圧倒的に未熟で、大人になった今思い返すと何でもないようなことが、特別だったり怖かったり、奇妙だったりといった記憶で残っていたりする。
呉明益(ご・めいえき/ウー・ミンイー)著『歩道橋の魔術師』(河出文庫、2021年。天野健太郎訳。以下、本書)は、そんな子どもの頃の不思議な記憶に纏わる物語だ。
舞台は、1971年生まれの著者が子どもだった頃の、台湾・台北市の中華商場。
本書は10本の短編から構成された物語(文庫版には中華商場が舞台だが「魔術師」と無関係の未発表作品も収録)で、著者同様、中華商場に暮していた同年代の人たちが、2010年代の今、各々の子ども時代の記憶を語る形式で進められる。
各物語で語られる彼ら/彼女らの記憶には、必ず一人の男が登場する。
男は「魔術師」と呼ばれてはいたが、売っているマジックの道具は「タネもシカケもちゃんとある」子供だまし的なものだった。しかし、「魔術師」は、もう大人になってしまった、かつての子どもたちの中で妖しい記憶として存在し続けている。
「魔術師」が人の形に切った黒い紙が意志を持って生きているように動いたり、自分たちが商場の公衆トイレにふざけて書いたエレベーターのボタンを「魔術師」に言われるままに押してあるはずのない99階に行ってしまったり、「魔術師」に言われてノートに書いた金魚を他の(ちゃんとした)金魚と一緒に飼っていたり…
彼ら/彼女らは決して嘘ではなく「本当に体験したこと」として話をしている。しかし、それは本当に体験したことなのか、幼い子どもによくあるように夢を事実と思い込んでいるだけなのか、誰かの話を自身の体験と混同しているのか、わからない。
もちろん本書は「物語」でありフィクションであるが、こういった「(誰にも話さないし、話しても信じてもらえそうにない)子どもの頃の不思議な体験の記憶」というものは誰もが1つは持ち合わせているのではないか。
それは台湾人でも日本人でも、いや世界中の人々でも、違わない。
物語は登場人物たちがそういった体験を誰かに語っているように書かれている。その誰かは最後に明かされることになるが、それまでの間、読者はその聞き手となって物語に入っていく。
まるで、どこかの飲み屋や喫茶店で目の前の友人に語られているような感覚…
それが物語にリアリティーをもたらす。
そのリアリティーは、中華商場が実在したことと、著者がそこで生まれ育ったことで、さらに説得力を増す。
「魔術師」が何者だったのかは明かされない。
登場人物たちが語る「魔術師」は、彼ら/彼女らの中の「魔術師」であり、いくら話を集めても、きっと実像には辿り着かない。
それでも彼が何者だったのか、自分の記憶は実体験なのか妄想なのか想い馳せる…
そういえば私にも、ふとした瞬間に思い出す記憶がある。
バラック小屋に住んでいた老婆が…
…あれは一体何だったのか?