21世紀"でも"恋愛?

現代思想(青土社)の2021年9月号の特集は、『<恋愛>の現在』だった。
「恋愛」というと、つい「異性愛」を思い浮かべてしまうのだが、そうではないことは現代のジェンダー認識からも明らかで、そういった意味でも興味深い特集だった。

だが、「異性」であれ「同性」であれ「トランスジェンダーの人たちの関係」であれ、現代においても「恋愛」が特別な関係だという共通認識があること自体が興味深い。
「多様化」と云われる時代において、関係性自体も多様化されているはずなのに、何故、「恋愛」だけが特別扱いされ、重視されるのか?

特集『<恋愛>の現在』の巻頭にある、高橋幸(社会学理論/ジェンダー理論)と永田夏来(家族社会学)の討議「これからの恋愛の社会学のために」によると、2010年代の「恋愛重視」の傾向は、『個人の幸福感や生活満足度を高めるといった純粋な「自分のために」という理由』[P21 高橋]ではないかという。
だから、『人格的承認の場としての恋愛というものへの期待は、今なお成立していて、全然弱まっていない』[同]らしい。

『人格的承認』のために恋愛があるのだとして、しかし、あらゆる人間関係には「別れ」がつきものであり、それはもちろん恋愛にも当てはまる。
つまり、『恋愛という人間関係だけが特権的に永続性をキープ』できるわけではなく、その不安定な関係性によって、『人格的承認』も不安定なものになるのではないだろうか。
『仮に全人格的な善き恋愛というものが存在するとして、果たしてそれは持続するのか』[P22 永田]。

「恋愛という人間関係だけが特権的に永続性をキープ」できる蓋然性がいぜんせい(引用者註:ある物事や事象が実現するか否かの度合い)は、現代社会では低くなっている。(略)にもかかわらず-もしくは、「だからこそ」なのかもしれず、そのあたりのメカニズムはまだ分かりませんが-恋愛はもういらないよね、とか、家族はいらないよね、ということにはならず、新しい時代に合わせた恋愛や家族の価値化・理想化が起こっている。

[P22 高橋]

恋愛が不安定だからこそ、その「不安」を逆説的に割り切った「安心感」に替えて誤魔化したのが、バブル期の「恋愛ゲーム」であったように思う。
若者向けの男性誌の「デートマニュアル」やホイチョイ・プロダクションの書籍(『東京いい店やれる店』とか)で男の子の「下心」を「恋愛」と読み替え、女の子はそんな男の子の下心を利用して「アッシー君」だの「メッシー君」だの…。
そんな「恋愛」は、「結婚」や「セックス」が成就されたところでゲームセットとなる。

バブル期の「遊び」としての恋愛においては、結婚やセックスといったゴールが達成された時点でゲームは終わりとする見方が強かったと思うのですが、今はセックスをしたからといって恋愛感情が消えるという感覚はおそらくない。いわば持続的幸福感ならぬ"持続的恋愛感情"のようなものが想定されていて、それをなんとか維持しようとする努力を今の若いカップルや夫婦はしているのではないか。制度的保証よりも、お互いに裏切らないという信頼感が持て、それによって自尊感情を安定させられるような"ずっと一緒にいられる相手"との関係性を「理想」として保持しており、それを達成しようと欲しているように見えます。

[P22-P23 高橋]

太字部分において、上述した『個人の幸福感や生活満足度を高めるといった純粋な「自分のために」という理由』で「恋愛」が理想化されている。
そして、『自分のために』ということが、現代の「承認欲求」や「自己肯定感を高める」発想につながっているのではないか。

今でも恋愛や結婚が何らかの意味で"成長"や"成熟"をもたらすという発想は残存しているかもしれません。結婚していなければ「一人前」ではないというような発想は-地域差はあるでしょうが-薄れつつある一方、恋愛や結婚は人を人間として成長させる機会であるというような、より個人主義的な言い回しで残存し、それが社会的抑圧になっているという側面はあると思います。

[P24 高橋]

というよりも恋愛・家族への希望の保持を手放せない人のほうがマジョリティなのかもしれません。一つには(略)日常生活というのはコンサバティブなほうがいろいろと都合がいいという現実があること。もう一つは、(略)選択肢が増えたからこそあえてコンサバであることが価値を持つということがあります。

[P24 永田]

そして、SNSで容易に他人と比較できるようになった(なってしまった)ことにより、自身の「リアルな立ち位置」を明確にし、より強固にしていかなければならないという強迫観念に襲われる。
だが、この不景気で不安しかない日本において、「リアル」を強固にするのは容易ではない。

他にも一般社会において地位や名誉が得られにくくなっていることも関係しているかもしれません。終身雇用制が崩れて非正規雇用が増大し、一世代前であれば得られていたような"一人前"という承認が得られなくなっているなかで、何によって一発逆転を図るかとなったときに、一応は個人的な実力によるとされる恋人の有無が問題になってくるのではないかなと。

[P24-P25 高橋]

とはいえ、SNSやネット社会であることに加え、「多様化」が進む現代において、『一発逆転を図る』手段は、何も「恋愛」でなくても良いのではないか。

本来、若者が自分の身を立てて居場所を獲得する手段というのは結婚や恋愛以外にもあるはずだと思うのです-例えば仕事で成功するとか、あるいは趣味のつながりでかけがえのない仲間を作るとか。ところがそうした成功の芽を90年代以降の日本は潰し続けてきたんですね。若い人たちが自分たちならではの、広い意味での親密性を形成しても、それを社会が承認しないということをここ30年ずっと続けているわけです。そのなかで社会的な承認を得て獲得されうる親密性として、家族や、あるいは恋愛というものに今のところ希望が託されているという構図なのだと思いますが(略)

[P25 永田]

社会的承認を得て、かつ結婚するというところまでが未だにワンセットにされる。恋愛をなしとげることによってそれらが一気に解決され、あたかもオセロの角を取ったように形勢逆転できるという期待がなおも存在しているわけですよね。経済的困窮や選択肢のなさが若い人たちをそこまで追い込むのか…という印象をもってしまいます。

[P25 永田]

2021年12月23日。
明日はクリスマスイブだし、それが過ぎれば年越し、初詣…
「どう過ごす?」「誰と過ごす?」
ネット社会においては、それすらも自身の「人格的承認」に回収されてしまうのだろうか…

年末年始くらい、せめて明るい希望に満ちて過ごしていたいのに…


※本稿は、現代思想2021年9月号掲載の、討議「これからの恋愛の社会学のために」を読んだ個人的感想を基に、高橋幸・永田夏来両氏の発言を恣意的に引用しています。
そのため、実際の討議の論旨と異なっている可能性があります。
また、引用部の太字は全て引用者によるものです。

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