映画『偶然と想像』を観て思った取り留めもないこと…(感想に非ず)
「偶然」は「過去」に向いており、「想像」は「未来」に向いている。
映画『偶然と想像』(濱口竜介監督、2020年。以下、本作)を観て、ふと、そんなことを思った。
「偶然」とは、「思わぬところで思わぬ人とバッタリ出会った」と言ったような「今ここで起きた事」だと思っているが、そうではなく、「今ここにいるのは、あの時、こんな事が起こったからだ」と過去を振り返った時に想起するものではないだろうか。
さらに言えば、自身では気づけないが、「あの時、こんな事が起こらなかったからだ」というのも「偶然」である。
それは仏教における「縁」の考え方でもある。「出会うのも縁、出会わないのも縁」。
「偶然」を「縁」と考える時、神や仏の導きだとか大袈裟には思わないが、それでも何かの必然性を感じてしまう。
田中久文著『日本の哲学をよむ 「無」の思想の系譜』(ちくま学芸文庫、2015年。以下、田中)によれば、哲学者・九鬼周造(1888-1941年)は自著『偶然性の問題』(1935(昭和10)年)で、「偶然」について、こう思索しているという。
その『偶然性の問題』とは。
本作の3本の短編において、それぞれの登場人物が「偶然的事件」「偶然的出会い」に遭遇し、それに巻き込まれていく。
確かにそうかもしれない。
だとすると、「第一話 魔法(よりもっと不確か)」の芽衣子(古川琴音)が、元カレのカズ(中島歩)に会いに行ったのは、嫉妬などではなく、『寄る辺のない不安感』に突き動かされたから、とも考えることができるのではないか。
そして、先に挙げた『絶対者が「必然-偶然者」である』とするならば、「第二話 扉は開けたままで」で、それを引き受け『外側から自己に降りかかるさまざまな偶然的事件に遭遇しなければならず、さまざまな他者との偶然的出会いを生きなければならな』くなったのは、瀬川(渋川清彦)でも奈緒(森郁月)でもなく、実は佐々木(甲斐翔真)ではないだろうか。
これについては、感覚的に理解出来そうな気がする。
冒頭で私は、「偶然」とは、「今ここにいるのは、あの時、こんな事が起こったからだ」と過去を振り返った時に想起されると書いたが、つまりそれは、その「偶然」が振り返った時に「必然であった」と得心することを意味する。そして「必然であった」と得心した時、人はそれら「偶然」を辿ってきた現在を「運命」と意味づける。
本作「第三話 もう一度」において、確かに夏子(占部房子)はあや(河井青葉)を高校時代の同級生と間違えた。そして通常であれば『目的的必然が目的的偶然を制約』し、単なる人違いで終わるはずだった。
しかし夏子は、自身が起こしてしまった『目的的偶然』を、あやに対する『目的的必然』へと転換してしまった。
そしてそれは、他の2話についても同様である。
芽衣子は刹那の「想像」の後、自身の『目的的偶然』を、カズとつぐみ(玄理)に『目的的必然』として譲渡し、店を出る。
奈緒はまさに、『「目的的偶然」に対して開かれた生き方をしながら、それを通して「目的的必然」ともいえるようなものを、みずからの手でつくり上げていこう』と決意し、バスを降りる。
私が本作で好もしいと思ったのは、冒頭に書いたように、「想像」を「未来」へ向けさせていることだ。
3話とも、そこで起こる「偶然」の岐路で、登場人物たちは「あの時に戻れたら違う生き方ができたのに」と、「想像」を「過去」に向けない。
芽衣子にも奈緒にも、そう思わせるシーンを用意しながら、しかし、濱口監督が、彼女たちにそこから背を向けて、姿勢良く颯爽と去って行かせたのは、何だか嬉しかった。
ただ一人、「あの頃に戻れたら」と「過去」に取り残されたのが、上述した『外側から自己に降りかかるさまざまな偶然的事件に遭遇しなければならず、さまざまな他者との偶然的出会いを生きなければならな』かった、佐々木だ。
一見、彼は奈緒が起こした「偶然」によって「幸運」が舞い込んできたかのように思える。
しかし実際のところ、結婚を含め『遭遇』した『偶然的事件』に翻弄され続けてきた彼は、自ら「運命」を決めたことがない。
そのことに無自覚な彼は、「偶然」バスで奈緒と再会し、無邪気に「あの頃に戻れる」「想像」をしてしまった。
バスを降りて颯爽と歩く奈緒と対照的に、他人が運転するバスに身を委ねるしかない佐々木…
「偶然」と「想像」についての、とても優れた寓話ではないだろうか。
おまけ
それにしても本作は、色々な切り口から色々な事が書けそうな、ある意味刺激的な映画だった。たとえば、パンフレットに掲載されていた小説家・小川哲氏の寄稿文……
つまり、「登場した人物は、(作者がわざわざ登場させているのだから)何らか意味があるはずだし、意味があるのが物語(フィクション)だ」と読者は思い込んでいる。一方で……
同じフィクションでも「現実と同じでは納得しない」と「現実と同じじゃなければ納得しない」…
保坂氏は『物語によって読者がフィクション・モードをチューニングする』と言うのだが、かように、読者(観客)のチューニング・レンジは相当広い。
本作はそのレンジ問題に対する模範解答の一つでもある気がする。
メモ
映画『偶然と想像』
2021年12月25日。@渋谷・Bunkamura ル・シネマ
十数年ぶりにBunkamuraでエレベータに乗った。
いつもはシアターコクーンかオーチャードホールだから、Bunkamuraで映画を観るのは新鮮だった。
以前の拙稿にも書いたが、何故か中島歩はセックスに関して責められる役が多いような気がする…(彼が出演する映画「愛なのに」(今泉力哉脚本・城定秀夫監督)は、2022年2月公開。本作は芽衣子がサラッと言い捨てただけだが、「愛なのに」では観客の男性たちまでもが一緒に凹みそうなほどケチョンケチョンな言われよう……)
なお、本稿における九鬼周造の「偶然」の言及については、朝日新聞2021年12月10日付夕刊の映画評論家・北小路隆志氏による本作評から着想を得ました。