台風が来ると聞いたから、窓を全開にして眠った。
この世の中に一切のノイズを含まずに最も心地よく耳に届く音があるとしたら、それは雨の音だと信じている。
雨の音、真っ暗な部屋、シャワーを浴びる気力も湧かず外出したままの服装、床に落ちたiPad、洗っていない水筒、その他諸々私の残り滓。普段なら1つ1つの怠惰の具現化が肌荒れにつながるようなストレスの原因となって、身体中を紫色の何かがどろどろと回ってどうしようもなくなる。そういう時はいつもYoutubeショートを見るしか、Twitterを見るしか、漫画を読むしかできなくなる。何も考えたくない、何も考えられない
「明日、台風らしいよ」と人から聞いたので、敢えて窓を全開にしてベッドに入った。時差ぼけの影響もあって眠れないような気もしていたが、そんな心配も杞憂に終わるほどゆっくり意識を失った。想定通り雨が隣家の屋根を叩く音、公道を走るトラックが水たまりを蹴散らしていく音、どこかを伝わり落ちる水滴がリズミカルに反響する音。その全てが本日のアラームとなった。
雨に叩き起こされた日は、自己肯定感が極めて高い。気持ちいい。普段なら体内を流れ出す紫色も雨の音と一緒に全身から流れ出て、世界中が僕のドロドロを吸収してくれる様に感じる。全ての動作がスローモーションに変わって、かまびすしい人生すらもボーナスタイムに入った様に感じる。
珈琲を淹れる
雨の日に飲む珈琲はどうしてこんなにも染み渡るんだろう。流れ切った紫色と入れ替わる様にしてカフェインを身体に取りこんで、もはや体臭すら珈琲の匂いになってほしい。
雨の日は、中深煎りのお豆がうってつけだ。浅煎りは清々しさを象る。逆に深煎りのお豆は夜と孤独とタバコのにおいに溶け込みやすい(タバコは吸わないが)。中深煎りくらいのしっとりさが気圧の変化で重たくなった身体に適度な活力と心の落ち着きを取り戻してくれる。
そっとそっと丁寧に淹れる。珈琲は豆の量や湯量、注ぎ方、時間などあらゆる要素が複雑に交絡しあって味が決まる。豆の焙煎具合や含まれているガス量、天気によっても大きく味が変わる。だからこそ、全くもって同じ味はない。よくよく味わってみると淹れるたびに異なる印象が感じられる。このもどかしさがハンドドリップの楽しさそのものである。
カフェインをいれると身体の感覚が徐々に敏感になっていくのを感じる。最初は汗腺が開くのかほんの少しだけ汗をかく。次に自分の身体感覚がより強く感じられる様になる。常に抱えている手の震えにも意識が強く向かい、少しだけ過敏気味な聴覚もより活性化する。こうした感覚の変化そのものが自分自身の身体を客体化するきっかけとなる。きっと私は珈琲をメタへの入り口としている。珈琲でするトリップ。悪くないと思う。
朝食
朝ご飯は食べない派だ。何なら昼ごはんも食べないことが多い。夜ご飯だけしっかり食べれば人間は生きていけると思っているのでこんな食生活になってしまった。朝ごはんを食べると日中の活動エネルギーが目減りする様な気がして、食べるのが億劫になる。だけど本当は丁寧に朝食をこしらえて、ふわふわした気分で食べる朝ごはんが大好きだ。もう少し人生を頑張らなくて良くなったら、自分の身体を他者のために切り売りして、ただ生きるをすることが不必要になったら。そんなタラレバを言い訳にして乱れた食習慣を享受している。
健康志向に対して違和感を抱くことが多い。長生きすること、健康に生きることが大事だと全員が口を揃えて言う。確かに健康に生きることは大事だ。私自身も例に漏れず、身を持って知っている。生活習慣や食習慣をおろそかにしながら、動き続けることは絶対にできないと言うことを。人間に無尽蔵のエネルギーは搭載されていないから、チャージしないと枯渇する。枯渇した先に待ち受けるのは虚無だ。何を食べても、何をみても、誰といても、何も感じなくなる。心が活動を停止する。三代欲求すらも感じず、時間の流れすらも忘れてひたすらに無の中に落ち込む。そこは灰色の世界で、きっとモモが見た世界そのものだったと思う。だから、健康は大事だ。でも違和感を感じるのは健康を大事にするあまり、その灰色の世界に入り込んでいる人もたくさんいるということだ。
健康的に生きることと貯金することはすごく似ている。どちらも未来志向的で逆算的である。計画的とも言える。もちろん現代社会で生きていくためにはある程度の計画は不可欠なものである。一方であまりにも不健康を恐るあまり、不健康を煽る様なネガティブアピールに流されるあまり過剰な心配と過剰な計画をしてしまっている様にも見える。まるで広告そのものが神にでもなったかのように。そんなにあくせく働いて、未来のために貯金をして、いつ楽しむつもりでいるんだろうか。
そんな考えごとをしながら珈琲と共にシリアルを流し込む。シリアルは豆乳と合わせる派だ。豆乳の飲み過ぎは甲状腺によろしくないらしい。でも飲み過ぎではないから問題はない。こうして朝ご飯を食べつつ雨の音をBGMにnoteを書く、そんな朝に乱れていた心が徐々に落ち着いていくのを感じる。
今日は何をしようか
「今日期限のタスクは〜」「明後日に提出のものがこれだから〜」「この日までに〜〜をしないと」
そんなことばかりを考えて、楽しい意味で「今日は何をしよう」なんて考えることが少なくなっていた。わくわくしながら供することを書き出していくのなんて随分と久しぶりのことに思う。雨の匂いに合う様な香水を買いに行きたい。今度のデートで着るための服を買いたい。お金はないが、これくらい働けばこれくらい稼げると言う自信がついてしまってから、お金に悩むことがなくなった。
いつも、ShouldやHave toで動く私は焦燥感と仲がいい。この焦燥感はうっすらかく冷や汗に似ている。最初は存在に気付きにくく、少し後になって感じるひやっとした感覚でようやく気づくことができる。焦燥感もリアルタイムで感ずることは難しい。文章を書くことはきっと焦燥感に気づくことだ。そして身体と共存する思考を明確に一本の線として描くことによって、その時その時の私自身を数KBで保存する。
こんなにゆっくりとした朝を享受しても、まだ8時半だというの。
なんて素敵な日なんだろう。
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