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愛あるところ神あり~人々のハートに内在するキリストの生命(慈悲の心・キリスト意識)について考察してみた~

愛あるところ神あり。―寓話『くつやのマルチン』から―

わたしの きょうだいである
ちいさいもののひとり に したことは
すなわち わたしに したことである

―トルストイの民話 愛あるところ神あり『くつやのマルチン』―

子ども向けの絵本に、『くつやのマルチン』という物語があります。
キリスト教を背景にしたお話しですが、宗教に関係なく、大事なメッセージが伝わってくるので、私は好きです。

あらすじはこうです。
聖書を熱心に読む信心深い靴屋のマルチン。ある日、耳元で「あした わたしは おまえのところへいくよ」という神様の声が聞こえます。

次の日、マルチンは神様を待ちながらも、町で困っている人や、お腹を空かせた人、弱い立場にある人を助けます。

そうして1日が終わろうとした頃、マルチンが助けた人(今日出会った人)は全て「わたしだよ」という神様の声を聞きます。

マルチンは神様がほんとうにやってきたのだとわかり、自分のしてきたことは正しかったと嬉しくなるのです。そして、冒頭に記した聖書の言葉で物語は締めくくられます。

キリスト教は、愛や、兄弟愛、隣人愛について伝えた宗教です。

(イエス・キリストの立ち位置/神と人間との関係/聖書の語句の捉え方については、様々な解釈があるようです。宗教というのは、人間が伝えてきたことだから、宗派が分かれるのも仕方ないよなぁ、というのが私の見方です。)

靴屋のマルチンは、誰にでもある優しさ相手を思いやる気持ちから、出会う人達に接していきます。

この童話の原題が「愛あるところ神あり」であるように、目の前の人にをもって接することが、神に会うということに通じる、とシンプルに伝えらえています。


―映画『マグダラのマリア』を観て―

マリアって、英語では「マリー(MARY)」って発音するのですね。

マリ…真理(しんり)みたいな感じに聞こえたので、「マグダラのマリアが捉えた真理は何だったのだろう」って問いを持ちながら鑑賞しました。


聖書に出てくるマリアは重要人物が2人いて、聖母マリア(イエスの母)と、マグダラのマリアです。

マグダラのマリアは、使徒と共にイエスに仕え、教えを広めました。
2016年、マリアはイエス復活の証人として使徒と同等の地位であると認められました。(が、それまでは、娼婦のイメージが宗教家たちによってつくられてきたらしく、女性が蔑まれてきた歴史が伺えます。)

慈悲の心を体現したマリア。


とても印象的なシーンがありました。

ローマ兵により踏みにじられた村の人達の最後を看取るシーンです。

村の状態に気が付ついたマリアは、イエスの指示(教えを人々に広めること)が出ていたにも関わらず、それを一旦脇に置いて、目の前で瀕死の状態にある人達を放っておけないからと行動に出るのです。

つまり、師であるイエスの指示にただ従うのではなく、状況を見て、マリア自身の良心(慈悲の心)に従ったのです。

愛と赦しの教えを伝えた師イエスの言葉を、行動で現わした瞬間でした。


神様の子であり…人間でもあるイエスキリスト。


この映画があることを知ったのは、松枝佳紀さんのnote記事からでした。
タイトルも思わず目にとまるし、圧巻の着眼点で、ビックリしました。

映画「マグダラのマリア」は、「「マグダラのマリア」は娼婦である」という1425年の長きに渡って流布され続けてきた誤解が解けた2016年にすぐさま製作が開始され、翌年2017年11月末に全米公開を目指して動き出した「マグダラのマリア」復権を描くための映画なのである・・・と、おおよそは言って良いだろうが、

実はこの映画、さらに深いものとなっている。

復権した「マグダラのマリア」をきちんと描くことはもちろんだが、それ以上に「イエス・キリストにまつわる物語」自体を「人間化する」という野望をもって作られた映画なのである。


イエス・キリストは、人間でもある。


イエスが幼いころ泣いていた、と聖母マリアが伝えるシーンがあったり、

師イエスが「神の試練」に対して心揺れている、とマグダラのマリアが寄り添うシーンがあったりします。

”人間でもあるイエス”の姿。

ついつい私たち人間は、「救い主が奇跡を起こしてくれる」って
救世主(誰か自分よりも偉大なる人)任せなところがあります。

でも、マグダラのマリアは、人間でもあるイエスの心に愛をもって寄り添った。そして、磔刑を見届けて、キリストの復活を最初に伝える人となったのです。

(そう言われてみれば、讃美歌でも「慈しみ深き、友なるイエスは~」と歌います。友なるっていう親しい間柄っていいなって感じます。

とはいえ、キリスト教の大概の宗派は、「イエス・キリストのみが神様の子。救い主としてお生まれになった。神様の資質を持つ子。」という解釈に近いんじゃないかな。)

映画では、神の国について語られたマリアの言葉が印象的です。女性ならではの感性(女性性)で述べられているように感じました。


一人ひとりの人間に内在するキリスト意識


さて。
神智学の流れをくむ、アリスベイリーが伝えた「秘教」に次のようなタイトルの本があります。

『ベツレヘムからカルバリーへ イエスの生涯に見るイニシエーションのプロセス』

裏表紙には、こう紹介されています。

イエス大師がパレスチナの生涯で経験した五つのイニシエーションは、誕生洗礼変容磔刑復活と昇天として知られている。

これらの経験は象徴的でもあり、事実に基づいたものであり、弟子たちの歩む道の道標になっている。

これらは、人間の魂がその霊的な旅路における五つの段階を通して行う体験を例示しており…

つまり、キリストの5つのエピソードは、人間が霊的成長の道を歩む上での、5つの危機を現しているというのです。

(因みに、イニシエーションというのは、目に見える儀式では無くて、段階的に認識される一連の意識拡大のことを言います。)

キリストの生涯における第四の出来事である磔刑は、東洋の教えでは、大いなる放棄と呼べれる第4イニシエーションに相当する。仏教用語で「流れに入る」と呼ばれるイニシエーションがあるが、イエスの生涯には「ヨルダン川での洗礼」と私たちが呼ぶエピソードがある。

私、始めてこの概念に出会った時、あららららって驚きでした。
西洋と東洋の教えの類似点が、普遍性として浮かび上がってきます。


「神は父であり、全ての人間が兄弟である」…という教えは、分かる。
「人間に神性が内在する」…というのも、最近のヒーリングの教えを通して、確信してた。

イエスキリストは、神様の子。私たち人間も、神様の子。
…ん??イエスは、先に道を歩んだ、お兄ちゃん?

「神はそのひとり子を賜ったほどにこの世を愛して下さった」…っていう聖書の言葉は、まぎれもない私たちひとりひとりの人間のことを想って愛してくれてるって意味?

「御子を信じるものは、永遠の命を得る」…という聖書の言葉は、私たちが神性をもった神様の子(魂は神の子)と信じることで、永遠の命を知るということ?????


そして、象徴的な言葉をこの本から引用すると、
”人々のハートにキリストの生命が内在している”

と。


「キリストの再臨」という啓示

秘教の本『秘教心理学・第一巻』に、「キリストの再臨」について書いてある箇所があります。おどろおどろしくなく、サラッと。

①肉体での到来(肉体形態をまとった人物)になるかもしれないし、②オーバーシャドウするかもしれないし、③すべての人々に、その臨在を感知し認識することによって現れるかもしれない

というのだ。

そして、

グループのメンバー一人ひとりがキリストの顕現であり、すべてのメンバーが一緒になって世界にキリストを現し、キリストのフォースと生命のための経路になるのである。

難しそうな表現だけど、

今の時代、キリストのエネルギーを示したオーラソーマボトルやフラワーエッセンスもあるので、キリストに象徴される愛のエネルギーが流れるんだね、って何となくイメージがわきます。


また、マグダラのマリアのように慈悲の心を現わし、くつやのマルチンのように優しく思いやる行動のことを思い返してみると、

歴史上の偉人と呼ばれる方々も、相手を思う気持ち(兄弟愛)を示した方たちだったと言えるし、

マザーテレサや、キング牧師、ガンジー、ナイチンゲール…
ルーズベルト大統領…

そうした人達が世界中に、たくさん現れてくるのは、現実味があるように思えます。

もし、歴史上の教訓があるとするならば、「救い主が奇跡を起こしてくれる」という他人任せではなく、「自らの神性をしっかりと捉え、それを顕現する」「愛あるところ神あり」という姿勢ではないでしょうか。


最後に、印象的だった映画『マグダラのマリア』のクライマックスの言葉を引用します。(ネタバレになるので、映画を楽しみたい方はここまでで。)

私たちは世界が変わることを望んだけれど
神の国はここにある

目には見えないものなのよ

私たちの中にある苦悩と怒りを解き放ち
子供のようななればいいの

神の国は争いや対立の中では生まれない
愛と赦しと共に心の中で生まれるものよ

師のように人の心をうごかせば
私たちも自由になれる

―映画『マグダラのマリア』―


ありがとうございました。
聖書から「愛」という名前を私につけたという両親に感謝して。

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