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【公教育をイチから考えよう】 書評#88

みなさん、いつもお世話になっております!
本日は、私の投稿の軸とする一つ「本」「読書」に関して書かせていただきます。

自己紹介に書いたマイルールを守りながら、私の大好きな本について書いていきたいと思いますので、どうぞよろしくお願いします!

今回は、教育について。
柔らかいようで、鋭いタイトルですね!!

ヘッダーは、相互フォローさせていただいているメイプル楓さんの作品を使わせていただきました!

イチからみんなで考えた先には、きっと、いや必ず、明るい未来が待っているとの願いを込めて使わせていただきました。

ありがとうございます!!


目次


基本情報

リヒテルズ直子・苫野 一徳(著)
日本小論社 出版
2016年8月15日 第1刷発行

全235ページ
読書所要期間9日

私が本書に出会うきっかけ

たまにオンラインで読書会をしている仲間がいる。
その方から「公教育で社会をつくる」という本を教えてもらった。
最初はそちらを買おうと思っていたのだが、よくよく調べると本書がその前に出ていることを知り、両方読むことにした。

順番に読まなければ気が済まない私としては、悩まずこちらからスタートさせた。

この本の本質

本書の本質、著者の伝えたいことは、最初の一文で明確に示されている。
とてつもなくダイナミックでカッコいい!!
引用してしまいましょう!!

本書は、書名の通り、「公教育」の意味を根底から問い直すことを目的に書かれたものです。

本書まえがきⅰページ目

もう少し具体的に言えば、これまでの教育は産業を支えるために行われてきたという側面がある。

このままで果たして、未来の社会の発展に貢献できる市民を育てることができるだろうか?
来るべき素晴らしい未来社会に向けたビジョンを、みんなで考えてみよう!

と投げかけていると感じている。

私が感じたこと

1点目 〜画一一斉授業に思うこと

全員が同じ方を向き、同じコンテンツで、同じ教授方法により、同じ進度で進められる授業を言うのだと私は認識しているこの「画一一斉授業」。

授業以外にも、画一的な服装や髪型、画一的な思考方法や思想、画一的で一方的なルールとそれに対する同調圧力。
集会では、静かに全員同じ方を向き、それに向かうために一糸乱れぬ隊列を編成し、軍隊よろしく行進しなければならない。

不安定で不確実な、複雑で曖昧なVUCAの時代と言われる昨今、果たしてこれが適切なのだろうかと、問い直さなければならないと私は感じている。

そもそも、VUCAはアメリカ陸軍発祥の言葉、軍事用語である。
軍隊式教育から軍隊が仮に抜け出しているとするならば(軍事における教育用語ではないとは思うが・・・)、日本の教育界は直ちにこれを改めなければならないのではないだろうか。
そうしなければ、日本の未来はますます暗くなるのではと不安になってしまう。

列をなす目的は何なのか?

集会で校長先生の話をしっかり聞くと言うことであれば、列は関係ないだろう。
きっちり列を成さなければ校長先生の話をしっかり聞けないという等式は成り立たない。

等式とするためには、数々の前提条件が必要であろう。

2点目 〜シチズンシップ教育とは?

本書にも登場するこの言葉。
みなさんは、どんなイメージを持っているだろうか?

”イメージ”と表現したのは他でもなく、要するに人によって捉え方が相当に異なるであろうという仮説を持っているからである。

ネットで調べてみると、色々出てくる。
「市民教育」
「主権者教育」
「社会参加教育」 などなど

私の捉え方としては、
・インクルーシブだったり、
・民主主義(デモクラシー)であったり、
・あるいは行動哲学、行動指針みたいな形
で使われたりもしていると感じている。

そのような中、私としては、
『シチズンシップ教育=子どもの権利教育』
だと認識している。

子どもの権利とはつまり、いわゆる「子どもの権利条約」に書いてある内容ということである。

  • 命が守られ成長できること

  • 子どもにとって最も良いこと

  • 意見を表明し参加できること

  • 差別のないこと

これら、ある種当たり前のことをしっかりと子ども達自身が認識し、大人達も認識する。
この双方向への働きかけが、シチズンシップ教育であろうと思っている。
とすれば、インクルーシブ・デモクラシーとしての主権者教育などは全て包含される。

ではいったい現状の日本では、そしてオランダ等ではどのようになっているのか?
そして、それを今後どのように扱っていけば良いのか?

こうした視点が本書には盛り込まれている。
ぜひご覧いただき、参考としていただきたい内容である。

3点目 〜本書を通じて感じた私の「子育て」について

教師が、あたかも自分だけが真理を知っているかのように、分かりきった『答え』を子どもたちに繰り返し唱えさせるだけの授業は、”学校ごっこ”をしているに過ぎない

本書P156

この言葉は、オランダ・イエナプラン教育の教員研修で指導的立場にあるフレーク・フェルトハウズ氏のものとして引用されている。

私自身、ものすごく身につまされる思いがした一文である。
私はこの言葉から、自分の子育てについて省みさせられている。

私はよく、子ども達とのやりとりの中で、
「こうすれば良いじゃん」
といった趣旨のことを言うことが多い。

これはつまり、子ども達にはない別な視点での価値観の提供という意味合い、つまり自分の意見が絶対的正解だと思って言っている訳ではないのだが、きっと子ども達はそう受け取っていないのだろうと感じた。

要するに、引用部分の「あたかも自分だけが真理を知っているかのよう」に振る舞っているとみなされたとき、子どもとの間の対等な関係性、もっと言えば信頼を失っている可能性があるということに気付かされたのだ。

この言葉の通り、学校現場に照らし合わせて考えてみると、確かに教師が常に一方的に正解を与えるだけの存在とみなされたとき、果たして子ども達はその教師に心から信頼した相談などをするだろうか?

きっと少ないだろう。

こうした見かけ上の教師と子どものとの関係性、一方通行の関係性をここでは”学校ごっこ”と表現しているのではないかと感じている。

とすれば、”親子ごっこ”を私は子ども達としているかもしれない。
これにものすごく恐怖を覚えた。

むすびに

どうしても付け加えたいことがある。
それは、決して今努力を積み重ね、日々必死に教鞭を振るう教師の皆さんを否定するつもりは毛頭ないということ。
著者の苫野氏も、著作のたびにこのことを記載しているように記憶している。

これを解決するための仮説が私にはあり、これを実践しているつもりである。
それが何かについては、これまでちょいちょい私の読書感想のなかで触れてきたつもりである。

キーワードは「地域」だ。

私は地域の一員として、学校に積極的に関わっていきたい。
たとえ、ウザいと言われようとも。


以上です。

ただ単純にサービスだから、あるいは義務だからと教育について盲目的にいれば、明るい未来が待っていないということは確実だと個人的には考えています。

そして、文句/批判ばっかり言っていてもまた、何も変わりません。

行動を伴わない口だけ、言説。
これが非常に多いのではないでしょうか。

まずはイチからみんなで考えましょう!!

ありがとうございました!!

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いなかのまどから
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