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【コミュニティナース】 読書#147

みなさん、いつもお世話になっております!
本日は、私の投稿の軸とする一つ「本」「読書」に関して書かせていただきます。

自己紹介に書いたマイルールを守りながら、私の大好きな本について書いていきたいと思いますので、どうぞよろしくお願いします!

今回は、タイトルの通り「コミュニティナース」についてです。
みなさんご存知でしょうか。
とても素敵な「生き方」です。

ヘッダーは、ふうちゃんさんの作品を使わせていただきました!
ありがとうございます!!


目次


基本情報

矢田 明子 (著)
木楽舎 出版
2019年2月1日 第1刷発行

全263ページ
読書所要期間7日

本書も、バリューブックスさんで購入しました!!
バリューブックスさんにコミュニティナースの矢田さん・・・
このふたつ、ゴリゴリでコテンラジオの影響だw

私が本書に出会うきっかけ

「コミュニティナース」という言葉や著者を知ったのは、上記にリンクした私の大好きな「コテンラジオ」からである。

その回は、もう何度も聞いた。
なぜそんなに聞いたのかと自分自身を振り返れば、やはりnoteのクリエイターページの自己紹介文に書いた「まちづくり」「教育」が、見事に融合しているからだと感じている。

なぜ「まちづくり」と「教育」が ”融合している” と感じるのかについては、下記〈本質〉で記載したい。

とにかく、とてつもなく興味のあることであり、コテンラジオを聞いて、もっともっと知りたいと考え本を探したところ、まさに矢田さんが書いたその名の通りの本があり、すぐに飛びついたという次第だw

私が思う、この本の本質

これは極めて明確なように思う。
それはやはり、本書タイトルにある通り
「コミュニティナースって何?」
ということに対する説明ということに尽きるだろう。

その中で、著者のコミュニティナースとの出会いとこの実践、そしてその普及についての取り組みを踏まえながら、将来の展望についてまとめられている。

これはつまり、「まちづくり」そのものなのだ!

私たち一人ひとりが何を考え、何を行動していくのか。
この集合体・力学が「まち」だ。

そして「教育」の本質は、自立だ。
一人ひとりが自ら考えて行動し、より良い社会を形成する一員となることが自立であり教育の目的である。

ということは、「教育」とは、より良い「まちづくり」をするための準備段階であり実践段階であると思うとき、私の食指は完全にこれに向いたのだった。

「まちづくり」なんて大きなことと思うかもしれないが、
・自分はどう生きるのか?
・自分はなんのために生きるのか?
このプロセスや結果が「まち」を形成する。
この積み重ねが「まち」である。

コミュニティナースとは、そのまちづくりの一形態・一要素であり、教育を受けた人々の生の成果発表の一場面でもあると私は思う。

ちなみに著者自身、コミュニティナースを伝えるための教育も行っている。

私が感じたこと

「コミュニティナース」とは?

本感想文をご覧いただくにあたり、比較的メジャーではないこの言葉への認識を一定程度揃えておく必要があるだろう。
これは、マイルールに照らせばやや御法度感があるが、今回はどうしても避けられない気がしている。

この言葉の意味を要約すると、私としては次の通り書いてあったものと捉えている。

【前提】
『日常的にまちに存在して、健康や安心安全に貢献する医療人材』

【基本軸】
①暮らしの動線に乗ること
・暮らしの身近な場所で、事業や制度にとらわれない自由な活動を生み出す。
・「地域で必要とされていること」が重なる部分を探り、そこをサポートする。
②多様であること
・看護の専門性を活かしながら、制度にとらわれることなく、まちに出て自由なケアを実践する
③「楽しい」を接点に、健康や喜びに貢献すること
・その人の中にある「やりたい」をベースにする。
・真面目な人は、「こうすることが必要だ」という”べき論”で動きやすい。

この基本的な行動軸をさらに要約すれば、
『制度にとらわれることなく、個人の「やりたい」をベースにしてマチの人々の「楽しい」を引き出すことができるよう、暮らしの身近な場所で自由なケアを実践する人材』
といことになるだろうか。

矢田さんの認識・思考の面白さ!

・大人にとっての「人と向き合う感覚」への違和感
・予測を立てることで安心してもらう職業
・証拠や根拠がないことをやるのに抵抗がある。

これらは、著者が表現していた福祉や介護というものの見方や看護師という職業観についてのものもである。

看護師を単に、医師の指示のもと医療行為を行う者という理解だけでなく、そこからさらに一歩引いてというか、俯瞰して看護師の動き・考え方の軸を捉えている。
特に上記「・」の一つ目は、看護師などの職を含めた、周りの大人が「良い」と思うことを薦められた時の気持ちを表現している。

決してそれは悪いと思っていない、良いことだと思いながらも、他人から押し付けられることに対する心の機微を絶妙に表現している。
これは、子どもの頃に感じた気持ちを表現したところだったと記憶しているが、著者はすでに「やりたい!」を基本ベースに物事を捉え、実践してきたのだろうということを容易に想像させてくれる。

自己犠牲が生み出す持続可能性

これは、絶対と言って良いほど「生むはずが無い」ということを、本書の登場人物(コミュニティナーシングの実践事例が本書で紹介される。)たちは教えてくれる。

・自分という存在を活動に軸に置くこと
・「誰かのため」とすると、ただの消耗線になること
・だから、自分の「やりたい」がベースとなる必要があること

こうしてみると、これはどうやらコミュニティナースだけではなさそうだと感じてくる。
全ての仕事にしても、趣味や人付き合いなどなど、ありとあらゆることにも活きてきそうだ。

プライベートはさておき、仕事は死んだ目をしてやっている人が、一定数いるように感じる。
それではつまらないではないか。
「どうしたら自分が楽しめるのか?」

それが実現できた時、結果として周囲も元気にする。
そのプロセスや結果を踏まえ、誰かと繋がることができる。

この営みがコミュニティナースの真髄ではないかと考えるとき、世の中の全ての仕事人間関係が、コミュニティナース、あるいはコミュニティナーシングと言うことができるのかもしれない。
と言ったら失礼になるだろうか汗

しかしながら、やはり本書でも終盤に「コミュニティパーソン」という言葉も登場してくる。
スーパーなおじさんなどのお話から出てくる表現だが、まさに「看護師資格」とはもはや切り離して考えてもいい、資格がなくてもでき得る活動であることを実感させられる。

むすびに(まとめ)

読んでいる最中、私は
「コミュニティナースとは、概念ではないか?」
という仮説を持った。

するとやはり、著者も「コンセプトであり概念」という表現をしていた。
著者自身も最初の頃は、職業や役割と捉えていたようだ。
確かに、既存の看護師や保健師などの活動が社会中に浸透している中で、「ナース」と聞くとこれらとの比較、あるいは延長線上で物事を理解しようとすることは、自然の流れだ。
ここをうまく言語化し、活字から活動がイメージしやすいよう様々な実践事例も交えて説明を施してくれている。

概念・コンセプトでありながらも、実際の取り組みとして
「何を解決するための実践なのか?」
という質問がよくあるようである。

その答えは、
「何かをすぐに解決するモデルではなく、これまでになかった日常をつくり出し、そこに存在し対応するという”対応モデル”
だと言う。

そしてその対応は、
「自分のエネルギーで形でするのではなく、地域の人のエネルギーでみんなが嬉しくなる形をつくる」
ということである。

できるようで、できない。
しかし一方で、やっていないようで、やっている。

そんな、絶妙な具合で行う働きかけ合いが、コミュニティナーシングなのかもしれない。


子どもたちやお年寄りと接する時、
「私は果たして対等に接することができているのか?」
つまり、心のどこかで何かをしてあげたい、何かをしてあげなければならない”弱い存在”と認識ているのではないか、そうハッとさせられます。

子育て・教育・医療・福祉とは、誰かが何かを一方的に提供するものではなく、互いを尊重する関係性の中で生じる、何かと何かの交換作業なのかもしれないと、まだまだ抽象的かつ根拠を明示できないながら思ったりしていますw

本日も、ご覧いただきありがとうございました!!

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