禅の集い
初体験
ご縁があって、北海道は伊達市にある大雄(だいおう)寺というお寺で坐禅などの体験をさせてもらうこととなった。
きっかけは、大きく二つ。
・お向かいさんがお寺、しかも禅宗は曹洞宗のお寺であること
・そこのお子さんと我が家の四女がクラスメイトであること
この繋がりから、お誘いいただいたものである。
コロナ前は、宿泊を伴って開催されていた。
しかも、子どものみ参加できるものだった。
長女・次女が何度か参加させてもらっている。
コロナが明け、徐々に様子を見ながら再開していくということで、今回は半日日程で開催された。
しかも今回は、大人も参加可能となった。
最近様々な宗教を勉強している中で、当然に仏教も少しは勉強してきた。
しかも我が家は一応曹洞宗の檀家ということもあり、坐禅には大変に興味を持っていた。
四女が行くと言ったから、これはチャンスと思い、私も申し込みさせていただいた次第である。
大雄寺
高速道路で車を走らせること、およそ1時間半。
伊達市にある大雄寺へ到着。
大きな駐車場の脇に、早速素敵なお庭がお出迎え!
伊達市は、あの伊達政宗の一族が移り住んだ地である。
今回、近所に住む四女のクラスメイトと共にまかりこした次第である。
なんと表現したら良いのかわからないが、敷地内の様子w
こちらもなんと表現したら良いかわからないが、お寺の正面玄関前の様子w
説明できない感覚
今年で第62回の開催を数える「禅の集い」。
ざっと見た感じ、15人前後のお坊さんが会場にいらっしゃり、開始時刻になると陣形を組んでお経が始まった。
冒頭にこれらを見て思ったことがある。
それは、
「変わらず守り続けるべきものがある」
ということ。
私はどちらかというと、特に仕事においては、
・改善
・バージョンアップ
・アップデート
・改革
・パラダイムシフト
などなど、要するに「変えていく」ことに主眼を置いてやってきた。
VUCAの時代において、どんどん変化する流れには抗えない、その流れ対応していくべきと考えてきた傾向がある。
しかし、モノゴトによっては、必ずしもそうでないと感じた。
「お経をちょっとアレンジしちゃおっかなぁ〜」
「私だけちょっとみんなと違う動きしちゃおっかなぁ〜」
「面倒だから、今回は集いを開催しないでおこっかなぁ〜」
みたいなことは、おそらくあってはならないのだと思う。
では、なぜ ”あってはならない” のか?
これに対する答えは、まだ私には見つかっていない。
でも、そう強く感じたのだ。
お経はお経として、これまで通りの形をなす。
儀式は儀式として、これまでの形態で営み続ける。
・よくわからないけど、きっとその方がいいのだろうと感じること
・超えてはいけない一線を感じ取り敬うこと
が、日本人が知らずに身につける独特の宗教性・宗教心なのだろうか。
「なんだか、そう感じてしまう。」
なんでも理由を探して、しかも言語化するみたいなことが肯定されがちな現代社会において、説明のつかないことを感じることもまた、豊かさの一種なのではないかと感じた。
普段お経を聞くのは、お葬式の場面。
そうでない場面で聞くからこそ、新たな感じ方を得たのかもしれない。
修行
禅宗においてというよりは、仏教において「修行」が非常に大事な行いの一つであると私は認識している。
その修行の考え方や行い方が、もしかすると宗派それぞれで異なるのかもしれない。
少なくとも禅宗においては、「坐禅」が一つの修行形態ということになるのだろう。
他の宗派が坐禅を行うのかどうかについて、まだ私はわかっていない。
ただ、坐禅や世俗から離れて行うもののみが修行ではないということだと私は捉えている。
つまり、
「日々の生活の中で当たり前に行うもの一つひとつを、丁寧にすること」
が修行だと考えているという認識である。
だから上記一番最初のお庭の写真下部のコメントにも書いた通り、こうした身の回りの手入れもそうなのだと思っている。
我が家の向かいのお寺さんでも、定期的に家族総出で庭仕事や草刈りなどを行なっている姿を見ると、あぁこれも大切な修行の一環なのだと思っていた。
それにしても、坐禅とは実に大変なものだった。
今回は、短縮版で15分を2セット。
通常お坊さんたちは、40分を2セット行うそうだ。
15分版でもなかなか足が大変だった汗
でも、想像していたよりは時間が短く感じた。
最中は、あまりモノゴトを考えない方がいいのだろうか?
それとも、いろいろ考えた方がいいのだろうか?
私なりの結論として、とりあえず何も考えないように努めた。
モノゴト一つひとつを丁寧に行うこと。
つまり、今回は坐禅という行為に集中し、他のことはあまり考えないようにしようと思ったのだ。
坐禅をしたからという訳ではないが、最近は職場のデスクで仕事をしながら弁当を食べることを止めた。
パソコンを閉じ、ご飯を食べることに集中することにした。
美味しいなぁとか、不味いなぁとかw
(マズいは、あくまでもものの例えである!)
むすびに
意外と文が長くなってしまった汗
が、最後にもう一つだけ・・・
帰りに、子どもが冊子をいただいてきた。
読んでみると、とてつもなく良いことがたくさん書いてあった。
私にとって大発見があったので、ここに共有して終わることにしたい。
それは、
「挨拶は、相手がそこにいることをお互いに認め合うこと」
という記述。
これは、言われてみれば確かにそうであるがしかし、そのように理解していなかった、絶妙な表現だと感じた。
「なんとなく、しなきゃいけないもの」
「しておいて方がいいもの」
「するように教えられてきたこと」
「当たり前のこと」
そんな感じで、挨拶をする理由が私自身の腑に落ちていなかったと感じた。
ちゃんと挨拶をしない方が職場にいる。
ともすれば、私もそう捉えられている可能性がある。
大事なことだと理解はしつつも、その理由が見出せず、やや蔑ろにしていたかもしれない挨拶。
「私は、ここにいる。」
「私は、あなたをそこに感じている。」
人権を理解するための、他人を尊重するための、最初にして最重要な第一歩。
それが挨拶なのだ!
本日もご覧いただき、ありがとうございました!!