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官僚制: 自己否定の起源〜学校教育を例にして〜

自尊心が足りない。
自己否定してしまう。

そんな問題が話題になってやまない。
それは全て官僚制を起源とするものだ。

かくいう私も自己否定してしまうし、
私自身も自尊心が足りないように思う

例を挙げよう、舞台は学校だ。


美術の授業

今日は、期末テストの結果公表だ

各々描いた作品を先週、先生に提出していた

その先生は、40-50代の丸坊主、ちょっとしたことでキレそうな体育会系の先生だ

期末テストでは、みんなで集まってスケッチブックに思い思いの絵を拵えていた

みんなやけにうまいなぁ

ちらっと見えるスケッチブックから垣間見える作品が細部までこだわって描かれているものから、シンプルで美しいものもあって、その一人一人のうまさに劣等感を浴びる

でも、自分の絵も味があっていいんじゃないかな
この歪み具合が私にしか出せないって思うし

そんな風に自己判断をして提出した

きっと大丈夫
そんな悪くないはず

成績上位者から、スコアの段階順に番号が一斉に呼ばれていく

スコアが低い者は再提出だそうだ

再提出の人たちが呼ばれていく

「うわー俺たち再提出かよーめんどくせえなぁ」

そんな声が飛び交えながら、気怠そうにぞろぞろと自身の作品にコメントされた付箋が貼り付けられた返却物を取りに向かう生徒達

「よし以上」
「再提出者はコメントを元に直すように」

あれ、自分の番号は?

気づいた、
呼ばれてないぞ

焦りが募る

体育会系の怖い先生なので、
直接言いに行くのも怖い

まずは、周囲に尋ねてみる

「自分の番号が呼ばれてないんだけど」

「え、そうなの、それは先生に言ったほうがいいよ」

「やっぱそうだよね、言ってみる」

周囲から、陰口のようにぼそっと声が聞こえた

「あー、やっぱり」
「過去の先輩たちから話聞いてなかったんだなぁ」
「だから、過去問見てやればよかったのに」

え、なにそれ、知らないんだけど…

とりあえず、先生の元へ向かう
一歩一歩踏み出す足が重い
まるで長い神社の境内の階段を登り終わる頃の、疲労感が蓄積されたような重みを感じる

「あの、自分の番号が呼ばれてないんですけど」

「何番だ?」

「4番です」

「ん?そうか」

え、、、どういうこと?

見渡すと、何か一枚だけ燃やされた灰になったような作品が鉄格子の中にある

「一枚だけあまりにも今回の授業の趣旨と違った作品があったのでな、酷すぎて評価できずに焼却処分させてもらった」

はあ?

ため息が出る

「お前だけは残念ながら再提出ではもうどうしようもない」

え,じゃあどうすれば?
顔に露骨に不快さが出ていたに違いない

「ごめんなさい…描き直しますから合格させてください…」

枯れるような声が出ていた

「ダメだ」

「お願いします、もう一度チャンスをください」

「わかった、いいだろう、再提出期限までに間に合わせるように」

「ありがとうございます」

何がいけなかったんだろう
全く腑に落ちないまま、私は振り返った

誰もいなくなった教室
本当に私は、自分があまりにも情けなくなった

なんて私は絵が下手なんだろう
自己嫌悪、自己否定に陥った

そして、2度と美術作品を作りたいと思わなくなった


この物語は実体験を元にしてはいますが、フィクションです。

これは官僚制が招く、自己嫌悪、自己否定の起源となるメカニズムを表した例です。

周囲から「だから〜すればよかったのに」など言われても、本人のありのままの表現を行う場が美術だと思うからと、本人の信念のもと、描いたわけです。

この短編では、それが周囲をはじめ、先生から一刀両断に否定され、自尊心が崩れていく様子を表しています。

先生というものは、本当に偉いものでしょうか?また、それに従うのが当たり前でしょうか?
皆と同じことをやって、優劣をつけるのが当たり前でしょうか?

テストだからといって、趣旨に背くからといっても、それは本当にそうだったのでしょうか?
またそこまで否定していいものなんでしょうか?

美術の授業を例にしましたが、あらゆる科目でこれと似た様な事例があると思います。

アニメやドラマなど、何かで興味を持って、せっかくやってみたくて、意気込んでいた人たちが、もうやりたくない、嫌いになった、と去っていくのをたくさんみてきました。

あなたの自尊心の欠如、自己肯定感が低い、自己嫌悪感、自分の可能性を感じられない感情の原点は、学校の官僚主義にあるかも知れません。

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