生活にエッセイを。
髪を切ってきた。
長い間お世話になっている美容師さんに髪を委ね、その小気味良いカットのリズムを感じながら雑誌を読む時間は、数少ない癒しの時間である。
雑誌は常に新しい発見をもたらしてくれる。
紙媒体がインターネットによって駆逐されかけている時代だからこそ、雑誌にある情報はワンランク上の洗練された質を帯びている。
雑誌を読むことで、SNS等からの膨大な情報で埋もれてしまっていたであろうニッチな情報を摂取できる。
特に”文化”というコンテンツについては、雑誌の存在感が僕の中で非常に大きい。
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”文化”というと何を思い浮かべるだろうか。
考えてみると文化の括りは拡張する一方で、もはや何でもありな感じがしてくる。
けれども、音楽、映画、本の類が持つ魅力は特に鮮やかで色褪せることを知らない。
飽き性な僕であっても、映画と本は生涯の趣味として存在し続けるだろうという確信に近い感覚がある。
それらのコンテンツは古今東西に、一生かけても触れられないほどの数があり、今この瞬間も膨大な未知のコンテンツが誕生している。そこが面白い。
『文化水流探訪記』は、そんな文化の持つ歴史性を教えてくれるエッセイだ。
先人たちによって作られた素晴らしい文化を享受できる幸せ、歴史によって洗練された良質な文化を継承することの意義を知ることができる。
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新しい文化として、今ではすっかり当たり前となったジャンルのひとつに”雑貨”が挙げられる。
雑貨こそ何でもありの代表格といえるだろう。
『すべての雑貨』では、雑貨化に歯止めが効かない現代についての興味深い考察が展開されている。
雑貨屋を経営する著者によれば、道具界の爪弾きものだったはずの雑貨が、人々の”雑貨感覚”の覚醒とともにその支配領域を拡大しているのだという。
そしてAmazonに代表されるようなデジタル空間は、あらゆるものを並列化して陳列するため、道具の雑貨化に拍車がかかり雑貨屋の存在意義が完全消失するだろうと述べられている。
雑貨という概念について問題提起をしながらも、自身は雑貨屋を経営し続けるという著者の素直な葛藤が印象的であった。
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著者の純粋な感情を体験できるのがエッセイの醍醐味ではないだろうか。
小説における著者の立ち位置が「監督」であるならば、エッセイにおける著者は「監督兼主演俳優」といったところか。
書かれている内容が何でもない日常のワンシーンであったとしても、そこには著者の鋭敏な感受性と緻密な自己考察によって裏打ちされた説得力がある。
そんな日常系のエッセイとして『せいいっぱいの悪口』は、特に純度が高いと感じた。
著者の堀氏や僕がよく読む燃え殻氏にしてもそうだが、「怠惰な自分」や「ボーッとする私」を描いたシーンが多いというのに、その瞬間に抱いた感情の解像度と考察レベルが高すぎて圧倒されてしまう。
僕は日記をつけているけれど、堀氏の日記のような緻密な文章を書ける日がやってくるとは到底思えない。
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緻密な描写というのはいつだって人を惹きつける。
それが人間の欲求に忠実なものであればあるほど、人はその虜になる。
『焼き餃子と名画座』は、まさに食欲を刺激する美味垂涎エッセイである。
東京は文化と経済の中心地であると同時に、食の都でもあることをこの本はよく教えてくれる。
膨大な数のライバルをおさえて人々の心を勝ち取った人気店、流行り廃りが目まぐるしく移り変わる街で残り続ける老舗。
新旧のスタンダードを一挙に味わうことができるのは、東京都民の特権だろう。
実際に手に入れられるかどうかは別として、日常生活の選択肢のひとつとして魅力的な店々があるという環境は非常に素晴らしいことだと思う。
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環境格差や文化格差を感じては度々自己矛盾に陥って、復活するまでに時間がかかるのは僕だけではないと信じたいところである。
どうしても”落ちる”ときは定期的にやってきて、その只中にいる間は本当に苦しい。
可能性が徐々に削られていく将来に薄い絶望感を抱き、「削られていく」という受動的な態度ではダメだと一念発起することにもいい加減疲れ切ってしまった。
自分の力で変えられるコトと、自分の力ではどうしても変えられないコトとの線引きがいつまで経っても分からない。
あったはずの可能性が失われた瞬間はいつも振り返った後で気づく。
今この瞬間も僕は将来の何かを失っている。
そんなどうにもならない感情に覆われたとき、僕は本を読む。
『傷を愛せるか』もそんなときに読んだ本のひとつだ。
抑制の効いた内省的な文章が力強い。
過去現在未来の全てに希望が感じられず、心が緩やかに壊死していくときに救いとなるものが芸術であり、文化なのだと僕は思う。
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遠くに春の気配が感じられる日々。
別れと新生活のイメージが付きまとうこの季節は、取り残され続ける自分の立場を再認識させられるようで少し苦手だ。
それでも自身の感情に正しく向き合って、淡々と日々を積み重ねていけたらいいなと思う。
それでは、また。