『消滅世界』村田紗耶香
はじめに:普通が異常で異常が普通
村田さんは、社会によって創り上げられた「人間は、大人は、子供は、男性は、女性は、こうあることが最も理想的である」という桃源郷を、完膚なきまでに叩き壊す。
本書もその例に漏れず、我々が”普通”と考える家族のカタチを”異常”であるとして木っ端みじんに破壊する。
本小説では、読者が”異常”と分類する社会を受け入れる主人公を描くことで、日々社会から刷り込まれた”常識”、”普通”、”理想”の概念を熱い抱擁で迎える、まるで家畜のような我々人間をグロテスクにそして残酷なまでのアイロニーを通じて辛辣に描いているのだ。
家族のカタチ:切り離された家族と恋愛、性と生
前提として、本書では、我々の現実社会では同じ文脈で語られる、”恋愛と家族”、”性と生”とが徹底的に切り離されている。
本書は、人間同士の性行為は異常であり、人類は人工授精によって子供を繁殖し、育てるという世界の話だ。この世界では、夫婦とは兄妹のような関係であり、夫婦の性行為を近親相姦とみなす。既婚者は普通、自身の妻・夫以外に恋人を持つ。恋人は生身の人間であることもあれば、人間の性欲処理の矛先となることを目的として創り出されたアニメのキャラクターであることもある。これがこの世界の家族のカタチ、人間の常識なのである。
この世界では新たな実験として、家族という概念を取り壊し、全人類が性別関係なく人工授精によって繁殖をし、生まれた子供を社会の中で共同で育て上げるという試みが行われる。
主人公の女性は、両親の性行為によって生まれた”異常な子供”である。主人公は、幼い頃から母によって刷り込まれた”常識”を、成長の過程で壊される。性行為は異常、両親が性行為をして子供を作るなど持ってのほかであるからだ。主人公は葛藤しながらも、案外すんなりと社会の常識に順応していく。
普通であること:マジョリティによる刷り込み
本小説では主人公のライフステージが幼少期、思春期、青年期、成熟期と成長に伴って移り変わる。本書の最も興味深いのは、主人公が恐ろしいほどにその場の”常識”に塗り替えられていく点であると女史は考える。
幼少期は、主人公の母から、恋愛結婚と性行為とそれによる繁殖が常識なのだと教えられる。思春期は、それがとんでもない誤解であり、自分が”異常”な子供であることを思い知り、溢れる性への興味を陰で処理する。青年期は葛藤しながらも世界の常識を完全に受入れ、大衆と同様に夫と結婚し、恋人を手に入れる。最後の成熟期では、新たな常識として拡大する”家族の概念の破棄及び、人類共同での繁殖と育児”をすんなりと受け入れる。男性も女性も人工子宮、人工授精によって自由に子供を持ち、生まれた子供は全員シェルターで共同で養育される。このニューノーマルでは、人類皆が”おかあさん”と呼ばれるのだ。
この主人公は狂人なのだろうか。このあり得ない世界の常識を素直に、抗うことなく受け入れる。きっと狂人に違いない。
そう感じてしまった読者は、恐らくこの主人公と同じ類であろう。
”普通”や”異常”とは、所詮多数決で分類されてしまうのだ。多数派であれば我々は”普通の人”であり続けられるのだ。だから我々人間は常識という色に喜んで染められるのだ。この主人公は、そのような我々人類の情けない習性を、まるで皮膚を剥がされ骨の髄まで見えているかの如くに晒上げる。
おわりに:究極の鉄鎖からの解放
女史は村田さんの、ジェンダー、性、家族という概念を根底から覆す描き方が非常に好きだ。彼女の徹底した破壊行為を文章を通じて見ることは、快感ですらある。否、文章どころでなく、実際に目の前で起こるところを目の当たりにしたいとさえ思う。
女史は幼少期より、”子供のくせに大人びたことを言うな”、”子供は黙ってなさい”、”女の子なんだから静かにしてなさい。”、”まだ中学生なんだからこういう服を着なさい。”、”男の子みたいな遊びはやめなさい。”と家族に言われてきた。これが私の世界の当時の常識だった。
大人になってみれば次はこれ。”女性なのに仕事バリバリやっていて凄いね!でも結婚はどうするの?”、”女性でこんなに気が強いと損するんじゃない?”、”女性は将来は結婚して仕事も辞めちゃうけど、若い時に何かに打ち込むのは大事だよね!”など、誉め言葉なのかおせっかいなのかよく分からないことを頻繁に言われる。思い返す度に反吐が出る。
我々人間は、常に社会から期待や理想を押し付けられてきた。性別や家族における役割などが格好の例だ。常識とは社会の変遷に伴って変化する、水のようなものだ。我々が今考える常識とは一体誰が決めたのか。なぜその行為、考えが好ましいと言えるのか。
このNoteを読んでくださっている皆様も経験があるだろう。自分の本当に欲望を他者に押さえつけられる。だが、その”他者”が一体誰なのかもわからない。ただ、自分の欲望は不適切であるように感じ、心の扉をきつく閉める。そしてそう感じるうちに、顔さえ見えない”他者”の色に自分自身が染まってしまう。染まったことにさえも気づかない。
かのジャン=ジャック・ルソーは、社会は人間の本来の姿を押さえつけ、不平等と不幸を生み出すと唱えた。人間は、社会という”鉄鎖”に繋がれ、家畜化されているのだ、と。村田さんの描く世界は、既存の鉄鎖から解放され人類が、新たな鉄鎖に絡まっていく過程を表現しているように女史は感じる。
村田さんの小説を通じ、女史は、鉄鎖に”抗う精神”を保つことにしている。このNoteの読者の皆様にも、是非彼女の作品を読んで、自身の人生を回顧してみて欲しいと女史は思う。